僕はつくづくガキだなあと思う。
Coccoさんはライブで「大人になるというのは、愛を与えられる人から、
与える人になること」と言っていた。
「大人」としての自覚を持って、Coccoさんはますます美しくなった。
僕はまだまだ愛をもらってばかりの甘えん坊だ。
自分の娘ともいえるような、若い人たちからいただいた、
やさしい愛情に満ちたメールをここに刻んで、
今年をしめくくりたいと思う。
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まずは、8月15日、16日の上映会「ひめゆりの風」の実行にあたり
ボランティアの中心となって動いてくれた民さんからのメール。
民さんは、今月半ば、お父様をがんで亡くした。
思い返せば、監督からひめゆりの風に誘って頂いた
次の日に父が入院したんですね。
だから、父の看病のことを思えば、ひめゆりのことが
影のようにくっついてきて、逆もまた然りです。
そのせいか、やはり今でも、自分の中で、
あの上映会がどういうものだったのかを整理するには至っていません^^;
でも、父にあのときの私の姿を見せることができたのは、
いろいろな思い出になりました。
上映会の数日後に父と車に乗っていたときのことです。
普段はCoccoのきらきらはあまり好みではなく聞いていなかったのですが、
車でかけたら、なんとも心地よかったんですね。
それで、「お菓子と娘」がかかったときに、
簡単にひめゆりとこの歌の関係を説明しました。
そうしたら、あっさりと、
「『お菓子の好きなパリ娘』だろ?おばあちゃんが好きでよく歌ってた」
と父が言いました。
びっくりです。ひめゆりで知った私にとっては、
特別なところにあるような歌だったのに、
東京のど真ん中、青山生まれ、育ちの祖母がよく口ずさんでいたなんて。
なんだか、嬉しかったのを覚えています。でも、
青山通りで口ずさんでた娘と同じようなときに、
壕を掘りながら歌っていた娘たちがいたのは切ないことですね。
父が亡くなってから、主に大学の人からですが、
私の知らなかった父の姿を聞かされることも多く、
新たな姿を知るほど、「ひめゆり」を見せたかったなあと思います。
父は専門がナチスドイツでした。
ゼミでアウシュビッツについての授業をしたときに、
話しながら、父はボロボロ涙を流していたと
ある生徒さんが教えてくれました。
昨日今日、研究や授業を始めた若手でもない、
耐性だってあるはずの父が泣いた裏に
どんな想いがあったのでしょうね。
いつか、アウシュビッツに連れて行ってもらうという約束は
果たされないままになってしまいましたが、
すこしずつでも父の残したものを自分なりに見ていけたらと思います。
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映画の予告編を作るとき、街頭インタビューの
インタビュアーをつとめてくれた早紀さんからのメール。
早紀さんは、高校生のときひめゆり資料館で宮城喜久子さんと出会った。
今年、ふたたび沖縄で喜久子さんと会ったとき、
「今度は孫を連れて来てくださいね」と言われた。
私事なのですが、12月22日に入籍致しました。
式は沖縄で、来年の4月に挙げてまいります。
まだまだ未熟者のわたしたちですが、
これからいい家庭を築いていきたいと思います。
やっとはじめの一歩を踏み出しました。
これから、ずんずん歩いて行きたいです。
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ポレポレ東中野の公開のとき、看板づくりをしてくれた通称「看板娘」の三女、瞳さん。
細かい仕上げの塗りはほとんど瞳さんに頼りっきりだった。
明るくも繊細で、自らの体を傷つけたりしがちだが、
12月に、「看板娘」たちと一緒にCoccoさんの青森ライブに参加、
生まれて初めての友だちとの旅だったという。
新たに見えたものもあり、まだ全然見えない感情もあり、
うまい事整理がついてなくて
自分の中でぐるんぐるんしてます。
ただ一つはっきりしているのはそれがこれからの壁になりそうということ。
大変だけど体当たりするしかありません。
私の中でも10年計画が産まれつつあります。
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現役学生の小説家として『ソラカラ』でデビューした桑原美波さん。
その原点は、中学生のとき、ひめゆりの生存者、与那覇百子さんの話をきき、
自分の思いを友だちにも伝えたいと短編小説を書いたことだった。
ポレポレ東中野の看板づくりでも大いに活躍してくれた。
看板娘末娘です。
本年は本当にお世話になりました!
ひめゆりを通して、たくさんの人と出会うことができました。
どれもこれも、素晴らしい出会いばかりでした。
ですが、まだ、私は柴田さんにいただいたもの(出会いや
チャンス、モチベーションなどなど)を生かしきれていないと思います。
柴田さんをうらやましいと思ってメールを送ったときの私と、
今の私は、まだあまり成長できていません。
まだ、何もやらずにうらやましがってばかりだなぁ
…と思います。
けれど、変わったこともあります。
以前の私は、ひめゆりを始め沖縄戦について「伝えたい」
という気持ちや「書きたい」という気持ちをもちつつも、
それは「過去のことを伝えたい」という思いだけだったように感じます。
過去にしてはいけないからこそと願いながら、
自身がそれを過去の中に完結させていたような気がします。
基地問題や教科書問題とは切り離して考えていた、
もしくはつながっているとすら思っていなかった節があったような気がします。
言ってみれば、私が感情移入していたのは
「沖縄戦で死んだ人々」にであって、
「戦争を生き残った人々」にではなかったのです。
ひめゆりのおばあたちが口にする教科書問題や基地問題の話、県民大会。
それらを聞きながら、何となく感じはじめていた「今への繋がり」。
夏休みの沖縄一人旅のとき、一家全滅の集落跡を見て、
私はすごくショックを受けました。
そのときに、やっと、今までの自分の間違いに気づいたのです。
やっと私は、今生きている人のほうへ本当の意味で
目を向けることができるようになりました。
あのとき、柴田さんにメールをして本当によかったです。
美波さんは、年明けの1月23日に、講談社から2作目の小説『夢霊(ゆめだま)』を
出版するという。
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ほかにも数多くのメッセージをいただいた。
ひめゆりから逃げ出したかったけど、ようやく向き合えるようになったという
北海道のAiさんからは、手作りのかわいらしい紙飾りをいただき
エイシアの玄関に飾ってある。
みんなのやさしい愛情が、風となって、
どこかに生きている悲しい魂のもとに届き、
笑顔にしてあげられますように。