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2006年12月 アーカイブ

2006年12月 1日

師走

師走に入った。
雲南の撮影チームが昨日戻り、
フィンランドの撮影班が冬ロケの準備を始めた。

11月はCoccoさんの風が吹く中、
東京で初めての試写会(沖縄以外で初めての試写会)を開き、
予想以上に皆さんから高く評価していただいた。
本当に意外だ。

正直言うと、編集しているときは
劇場公開とか、どこで上映するとか何も考えず、
ただ「きちんとまとめたい」という思いだけだった。
今のうちにきちんと形にしておきたい、
おばちゃんたちの目の黒いうちに
おばちゃんたちが納得の行くものにしておきたい。
それだけを考えていた。

だから、こうして上映に向けて準備している自分に
今とても不思議な感じがする。

あさって日曜日から一週間余り、
また沖縄に行く。
ゆっくり、ゆっくり考えたいから。
今後のこと、
ひめゆりの未来のこと。
沖縄の未来のこと。
日本の未来のこと。
もちろん、僕自身の根っこのことも。


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「皆さんに質問です。」に答えてくださっている皆さん、
ありがとうございます。

お答えを読ませていただきながら、
あまりに多くのことを考えさせられ、
メールやコメントに
すぐに返信できないものがほとんどです。

この質問と、そのお答えのことは、
今後とも大切にして行きたいです。

2006年12月 2日

susieさんへ

11月28日の「皆さんに質問です。」にコメント投稿してくれたsusieさんが、
面白い質問をしている。

   沖縄で、タクシーの運転手さんと、同乗したオバァがこう言っていました。
   「別に、沖縄だけじゃないからよ。
   もっとひどい目にあったところはたくさんあるさあ」
   私のように、沖縄戦に対して特別な想いを持って
   来た人たちのことを、あまり良く思っていないのかしら?
   同情されてるように思われたのかしら?と不安になりました。
   沖縄の人たちは、本当はどう思っているのでしょうか。
   今でも気になっています。

susieさんは元気のいい人だ。
オバァとタクシーに同乗した、というシチュエーションがすごい。
市場かどこかで知り合ったオバァなの?
ドラマみたいだね。

さて、susieさんが気になっている
   「別に、沖縄だけじゃないからよ。
   もっとひどい目にあったところはたくさんあるさあ」
というオバァたちの反応について。

よく分かる、そのリアクション!
とても沖縄の人っぽい!
susieさんのセリフの書き方もとてもうまい。
よくオバァ言葉をとらえている。
でもオバァたちがなぜそう言うのか、
僕にも言葉にするのは難しい。
沖縄生まれ、沖縄育ちの僕のカミさんと
話し合ってみた。

カミさん曰く、
    私が若い頃、よく本土の人たちが
    「沖縄の人たちに対して申し訳ない、
     あんな犠牲を出してしまって申し訳ない、
     とてもじゃないけど、沖縄の地に
     行くことはできない」
    という言葉を聞いた。
    それを聞くと、なんか「寂しいなぁ」と思った。
    罪悪感を持ってしまって沖縄に来ないよりも、
    まずは来て欲しい、知って欲しい
    ずっとそう思っていた。

つまり、心の壁ができてしまうことが嫌なんだね。
だから、沖縄戦を特別に取り上げて「申し訳ない」と言われると、
「いや、沖縄だけじゃないからよ」
と答えてしまう。
心と心でバランスを取ろうとしているんだと思う。

でも、沖縄戦のことを何も知らずに、
ただのリゾート感覚で来る人に対しては、
沖縄の人も「辛いのは沖縄だけではない」とは決して言わないだろう。
心の中で憤りを感じている人も多いと思う。
でも、「あなたの責任、本土の責任だ」と口にはしない。
黙って、じっと見ている。
そのときの沖縄の人の表情は、
けっして怒った表情もしない。
笑っている、焦点の合わない笑顔をしている。
心で絶望しながらも笑う。

しかし、沖縄の人にとっての最大の侮辱は、
次のような言葉だろう。
    「久間章生防衛庁長官は23日夕、長崎市内で講演し、
    米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設問題に関し、
    先の沖縄知事選で与党が推薦した仲井真弘多氏が
    敗北した場合を想定、
    代替飛行場建設に必要な公有水面の埋め立て権限を
    県知事から国に移譲するための
    特別措置法制定を検討していたことを明らかにした。」
沖縄の意思なんて知ったことではない、
日本政府のやりたいようにやる・・・。
お金(沖縄振興策)を目の前にちらつかせながら、
沖縄県民の心を分断していくヤクザなやり方。

カミさんは、次のような言葉がやりきれないという。
    「沖縄の人は基地ではなく経済を選んだんだよ」
基地のかわりに経済振興を選んだという
二者択一の見方をされること、
心の痛みを知らずに結論づけられてしまうこと。
これが最もつらい、と・・・。

でも、沖縄の人は、じっと黙って
苦渋の選択に耐えている。
心では泣きながらも笑っている。
まるで寅さんみたいだ。

もちろん、沖縄の人も、全部が同じ考えではない、
それぞれ違った感じ方をしている。
ここに書いてきたのは、こういう感覚の人が多いかな、
ということ。


ところで、susieさんのコメントには、
アメリカでの歴史教育についても書かれていた。

    彼(五嶋龍)はアメリカの普通の学校に通っています。
    歴史のカリキュラムが「第二次世界大戦」の事に進むということで、
    「日本人」でもある龍くんに、
    「アメリカ側からの視点での内容になること」を承諾する
    念書を書かせているシーンがあるのです。

歴史は見る視点によって全く違ったものに見えるということを
アメリカの学校ではきちんと認識しているんだ!
知らなかった。
教えてくれて、ありがとう。
ちなみに、アメリカでは、
原住民(インディアン)との間の歴史についても
征服者側の視点に立っているという前提を
曖昧にしないでいるのだうか。


2006年12月 4日

沖縄にて

プロデューサーの小泉修吉さんと共に
きのうから沖縄に来ている。
今日は、ひめゆりの資料委員会(学級委員会のようなもの)だった。
11月13日のブログにも書いたように、
おばちゃんたち、主要な面々が集った。
冬の寒さを吹き飛ばすように、みんな元気だった。

沖縄での劇場公開の日程について話し合った。
3月23日、つまり「ひめゆり学徒動員の日」から公開を始める、
という方向で、これから調整していくことになった。
この日は沖縄戦が始まった日でもある

沖縄の人も、
沖縄戦が終わった6月23日のことは知っていても、
沖縄戦が始まった日のことはあまり知らない。

映画の上映開始とともに、
62年前のその日、その日に、
ひめゆり学徒たちはどうしていたのか、
そのことも併せて伝えて行きたいと思う。
(戦場の中での卒業式もあったんだ!)

桜坂劇場の支配人の真喜屋さんが
長期出張で沖縄を離れているため
最終決定はまだだが、
電話で話したときには、
真喜屋さんもその方向で良いという感触だった。

いよいよ具体化してきた。

3月23日は春休み中。
本土から沖縄へ映画へ観に行く人なんて
いないだろうか・・・。

2006年12月 5日

ポスターづくり

劇場公開にあわせて、
映画のポスター、チラシのデザインもゆっくり、ゆっくり進んでいる。

デザイナーは市川千鶴子さん。
ヨーロッパ映画の個性的なポスターを数々手がけてきた方だ。
去年は、ドキュメンタリー映画「六ヶ所村ラプソディー」のポスターも手がけ、
その出来栄えがとても素晴らしいと思った。
「六ヶ所村ラプソディー」のスタッフを通じて紹介していただいた。

市川さんは今頃きっと、試行錯誤をしていることだと思う。
これは、市川さんからのメッセージ。


    映画、拝見しました。
    お送りいただいたCoccoのコラムを読み、
    監督のブログで次々と寄せられる反響のメールと
    それに応える監督の言葉を読み、そして考えています。

    ゆっくりとやわらかな語り口調に聞き入ってしまいました。
    そしてその言葉がひしひしと胸の奥まで響いています。
    彼女たちが体験したことが、手に取るようにわかり、
    その状況を想像し、戦争がどれだけ怖く悲惨なものなのか、
    この年になって初めて実感した気がしています。
    今まで知った気になっていたことが、
    なんと上辺だけのことだったか。

    ブログのメールにもありましたが、誰かの演出も脚色もない
    体験者の言葉は、とても貴重で力がありました。
    想像以上ですっかりやられています。
    辛い記憶をかかえたまま今まで生きてきたことの強さに
    裏打ちされた彼女たちの言葉と笑顔は本物でした。
    本当にスドンと伝わってきています。
    長い時間をかけ丁寧に作ってきた監督にも敬服です。

    監督から、ビジュアル案をメールいただきました。
    キャッチフレーズ案はとても良いと思います。

    私が気になっているのは、監督がブログで使っていた
    「ひめゆりの風 Coccoの風」の「風」という言葉。

    ひめゆりの方々だけでなく
    沖縄の大地と空と海も戦争の証言者ではないか。
    海岸の岩の間を、皆の想いのこもったが、
    今も吹いているのではないか。

    Coccoの言う「スカートの裾にふく風=ひめゆりの風」だとしたら
    その風はとてもやさしい生きる人を励ますようななのではないか。
    風が表現できるといいな、と考えています。

    あと、沖縄の空や海は特別の色なので、
    その鮮やかさを出したいです。


12月末までには、ビジュアルのイメージが固まるはずだ。
年明け早々には印刷に出し、
2月から予定しているプレス試写(マスコミ向けの試写)に備える。
また最初に公開する沖縄の桜坂劇場にも、
1月末か2月初旬にポスターを置けると思う。

2006年12月 6日

再び兵庫のNMさんから

11月25日にご紹介した兵庫のNMさんから、再び届いたメッセージ。

    映画を早く観たいという気持ちの反面、
    まだちょっと怖いなと
    思う気持ちがあるのも事実です。
    しかし、お返事の中で
      トンネルの向こうのかすかな出口は見えると思います。
      3日ぐらいは眠れなくなるかもしれないけど、
      その後は、しっかりと戦争に目を見据えられるようになると
      僕は信じています。
    この言葉に背中を押されています。

    そして、おばぁ達の話をちゃんと自分で受け止めた時
    ようやくわたしも前に進める勇気を持てるような気がしています。

    そして、柴田さんも心を痛めた日々が続いたこと。
    きっと、わたしも大丈夫。
    知らなくても生きてこられたけど
    知って生きていきたい。
    強く思っています。

    それから、以前のブログに書かれていたおばぁの言葉。
      「『怒り』をそのまま相手に返すなよ。
      じっと我慢しなさい。
      それは神さまが返してくれるから。」
    真の強さと、大きさと、優しさを感じました。
    わたしも、そんな人間になりたいです。

    公開まで、忙しい日々、大変なご苦労が続くと思いますが
    どうかお体に気をつけてがんばってください。
    わたしも、自分なりに勉強しながら公開を待っています。


NMさん、あなたが前向きに歩もうとしていることに
僕らも励まされます。
ありがとう。

2006年12月 7日

月夜に想う

きょうの沖縄本島南部は雨。すごいスコール。
夜になって、月が出た。

昼は資料館でおばちゃんたちの話を聞く。
汲めども尽きない井戸。
聞けば聞くほど、知らない話が飛び出してくる。

これまで記録した話は約100時間。
映画にできたのは わずか2時間。
50分の1に圧縮した、味クーターな(味の濃い)映画。

それでも、これは
おばちゃんたちの体験のほんの一部にすぎない。
まだまだ聞けていないことがたくさんあることに
あらためて愕然とする。

来年になったら、またカメラを回そう。
そして、続編、続々編、続々々編を作ろう。

  (まだ映画を観ていない皆さんにそんなこと言うのも
   たいへん申し訳ないと思いつつ、書いております・・・)


追伸 Coccoの風を郵送してくれた青森出身のKMさん、
    手紙、確かに資料館に届きました。
    とても心に響く文章ですね。
    ありがとうございます。

2006年12月 8日

26歳のおかみさん

沖縄本島南部、本日は快晴なり。

僕のお気に入りの宿の壁に掛けられた
Coccoさんの祖父、眞喜志康忠さんの直筆の色紙が
朝の陽射しの照り返しを受け
にぶく輝いている。

   低く暮し
    高く思う
      眞喜志康忠

民宿のおかみさん、藤原奈央子さん(26)は
沖縄芝居が大好きで、
巨匠、康忠氏がたまたま近くにお茶を飲みに来た時
サインをねだったという。

奈央ちゃんは神戸出身。
中学生のとき阪神大震災で被災した。
そのときボランティアで来た沖縄人の素敵な笑顔が忘れられず、
「いつか沖縄においでよ」と言われた言葉どおりに実行した。
今は糸満でエイサーや古武道をしながら
民宿の運営をしている。
いや、逆か・・・、民宿の運営をしながら
エイサーや古武道をしている・・・。
というべきなのだが、
お客さんが少ないときは近くのコンビニなんかでバイトしているので
何が彼女の本業かは、一概には言いがたい。
パワーあふれる人だ。

この宿は、ひめゆり資料館リニューアルのときの基地でもあった。
総設計をお願いした岡部憲明さん(関西新空港を設計した建築家)をはじめ、
スタッフ全員ここに泊り込んで、
昼も夜も資料館に通った。

映画の撮影のときも
最後の3回ほどはお世話になった。
僕がくたびれはて、
レンタカーをぶつけまくったことがある。
知念岬の駐車場の路肩に乗り上げパンク、
山城丘陵で再びパンク、
糸満高校の駐車場では校舎柱に衝突し
車後部が大破。
一週間の間に立て続けに起こった。
そんなとき、奈央ちゃんが駆けつけ
ニコニコ笑いながら助けてくれたものだ。

奈央ちゃんの夢は、
色んな人の出会いが生まれるような場をつくること。
人と人がつながっていくことで、
新たな夢が生まれる場をつくること、という。

確かに、この宿には、
夜になると地元のおばぁ、にいにい(青年)たちが集っては
話に花を咲かせる。
この宿の主なお客さんは
一杯100円の泡盛や
一缶200円の発泡酒を飲みにくる人たち。
この3日間、宿泊客は僕ひとり。

沖縄で暮している限り
金銭的に豊かになることは望めない。
貯金なんて夢のまた夢。
でも、人と人が信頼しあい、
助け合って行けば、
辛いことも楽しみに変わる。

    低く暮し 高く思う

眞喜志康忠さんの言葉は
知恵と矜持に満ちている。

Coccoさんも言っていたっけ、

    来年の予感。
    お先真っ暗
    でも、大丈夫。
    歌を掲げて全力前進。
    願うだけじゃ、叶わないこと。
    叶わない夢もあるってこと。
    それでも進め。

26歳のおかみさん、奈央ちゃんは
きょうも元気に「バイト」に出かけて行った。
  (何が本業か、もう分からん)

日本軍の真珠湾攻撃、マレー半島上陸からちょうど65年目の
朝のひとつの風景だった。

2006年12月 9日

紅型(びんがた)修行

昨夜は鳥取県出身のTNさん(25)に案内され、
「ひめゆり」を上映してくれる那覇・桜坂劇場の偵察を兼ねて
劇場周辺の盛り場界隈に繰り出した。
そして、体験したことのない不思議なバーに行った。
おかげさまで、新鮮な空気を吸い、
今日は朝から仕事がよくはかどっている。
ありがとう。

TNさんは、4年前に沖縄に移住してきた。
Coccoさんのファンで、ゴミゼロにも参加した。
彼女の夢は、沖縄の染め物、紅型(びんがた)の作家になること。
いま、伝統的な技法と道具を守る紅型工房で修行中。
そうした工房は、沖縄県内でも数少なくなったとういう。

沖縄の伝統工芸の経営は厳しい。
TNさんの仕事は朝9時から夕方6時まで、
月曜から土曜日まで休みなく働いているが、
彼女が一ヶ月にもらう給料は
○万円という。
食事は工房で出してくれるものの、
アパートの家賃すらまかなえない。
「勉強のため」と自らに言い聞かせ、
親から仕送りをしてもらいながら、日々研鑽に励んでいる。

もちろん、迷い悩みも多い。
いつまで続けて行けるのだろうか・・・、
果して自分はこの仕事に向いているのだろうか・・・、
早く成果を出さないと・・・。
そんな煩悶が、ようやく最近になって、振り切れつつあるという。

TNさんの良いところは、
自分自身の考え方をしっかり持っていること。

    私は沖縄へ来てすぐ、ひめゆりの塔に行きました。
    語り部の元女学生の方の話を聴き、
    実際にあったこと、記述などを見て
    涙が止まりませんでした…。
    実際にこの沖縄の地で現実にあったこと、
    語って下さった方々の痛みと強さ、
    この痛みを知らずに、沖縄にいて工芸を学ぶのは
    失礼だと思ったし、礼儀だろうと思いがあったからです。
    実際に紅型染めの歴史も、戦後一時途絶えたものを
    偉大なる先生方が血の滲む想いで復興されたのを知っていたので…。

TNさんの学んでいる染物、紅型(びんがた)は
沖縄戦後に、米軍の銃弾の薬きょうなどを利用して道具を作るなど
TNさんの言うとおり、血の滲むようなプロセスを経て
復興を遂げた。

    私は、家族で社会問題について話す事が多く、
    戦争体験した祖母から話を聞いたりなど、
    考えるという環境には恵まれていたのかもしれません。
    沖縄へ来る人の中には、メディアの影響で
    「観光地沖縄」のイメージが強調され、
    激戦地だった沖縄を知らずに過ごしてしまう人も
    多いみたいです。
    やっぱり、わざわざ辛い事を見るのは痛いし、見たくない。
    でも、風化して、すべて過去の事として、
    その事に対して知らない、知ろうとしない事は
    一番いけないことだと私は思います。
    個人の意識の問題かもしれないけれど、
    過去にあった事を過去のものとして背を向けず、
    受け止めて次に伝えるという義務が、
    私たち若い世代にはあると思う。

TNさんが連れて行ってくれた那覇・桜坂の裏町のバーは、
今にもコンクリにヒビが入りそうな古いアパートの3階。
屋根裏倉庫の趣きの、暗い小さな空間だった。
オーナーの自称「アル中ハイマー」さんが、
最近ミクシー経由で入手したという「おっぱいの歌」で
迎えてくれた。
ユーモアたっぷりの楽しい替え歌だった。
つづいて披露してくれたのが自作の詩。
911をきっかけにイラクで繰り広げられている
イラクの人々に対する虐待と、
その現実を知らずに米国に加担する
私たち日本人の悲しさと矛盾を
短い言葉でつづっていいる。
すばらしい朗読だった。

TNさんの言葉。

    知らない事(無知)はいけないと思うけど、
    知らせようとしない教育とか、メディアとかにも疑問。
    でも、無知はだめというのは簡単だけど、
    じゃあそれに対してどうするのか、
    どうしたらより多くの人に知ってもらえるのか、
    考えあって、話し合って、
    具体的に動く事が大切なんじゃないかと思う。
    戦争から半世紀も経って、益々学びにくいけど…
    私が親になった時、伝えていきたいし、一緒に考えていきたい。

TNさんは、厳しい職人工房の環境にもめげず、
沖縄で色々なことを吸収している。
考えている。

    沖縄にいて地元の新聞を読んでいると
    毎日が「アメとムチ」。
    おいしいアメ(優遇政策)をチラつかせられたかと思うと
    翌日には冷たく突き放される。
    そんな言論の中を、私たちは生きている。

アメとムチとの間を行き来し、
自らの言論の足場を失いつつある沖縄のメディア。
TNさんの実感では、沖縄の人々はいわば
「言論のジェットコースター」に乗せられている。
そして感覚が麻痺してしまう。

彼女の救いは、工房の先生が尊敬できる人だということだろう。
今の世の中、「尊敬できる大人」が絶滅危惧種となっている。
そんな人に出会えただけでも、
生きる勇気が湧くというものだ。

たいへんだろうけど、
まずは自分の職を確立することも大切。
学べることを、とことん学びながら、
同時に、この社会をよくするためのことを
考えて行きましょう。

    ひめゆりの映画で語って下さった
    元女学生の方々の勇気と想いと願いが、
    一人でも多くの若い人に伝わるよう、考えるよう、
    私のできることから一つずつしていきたいと思います。

ありがとう。
映画のチラシができたとき、
配るのを手伝ってくれるっていう。
それだけでも、大いに助かります。


2006年12月12日

やしがこっこい

いま東京に戻った。

きょう ―― いやもう昨日になってしまったが
月曜日は、ひめゆりの「資料委員会」、
つまり、ひめゆり学徒生存者の“学級委員会”の日だった。

この日のために僕は何日も徹夜で資料を準備し
朝着いたときから、もう眠くてたまらない。
40歳になる前は、
何日徹夜しても平気だったんだけど、
今は一晩完徹しただけでも、翌日はかなりこたえる。
僕がそう言うと、おばちゃんたちは
「70代と80代でも全然違うよ」
と口々に言う。

「80歳になると、しっかり歩いているようでも
 どこか足腰がおぼつかない。
 かーがんぬる あっちょんどー。
 (まるで影が歩いているようだよ)
 平衡感覚が麻痺して、
 自分が歩いているんだか、影が歩いているんだか
 よく分からないような感じよ」

一見元気そうに見えるおばちゃんたちだが
たとえばスカートを履くときに
何かに寄りかからないとふらつくし、
階段を歩くのが大変だという。
このところ忙しいのか、
表情に疲れの目立つ人もいる。

おばちゃんたちは「100歳までがんばる」と
言ってくれるけど
本当にいつまでもお元気でいて欲しいと
切に思う。

色んなことを話し合ったのだが、
Coccoさんの12月4日の「想い事。」も
みんなで読んだ。
いつもの通り、声に出して音読するのだ。

いきなり
     一番うれしかったこと。
     ひめゆりのおばぁ達に
     Coccoのライブ映像を
     観てもらえたこと
で始まるから、おばちゃんたち少し緊張するが、
     今年しくじったこと。
     いっぱい
のところで皆、大笑い。

それからは、
まるで可愛い孫娘の手紙を読むかのように
和気あいあいと、
ときには爆笑し、
ときには「なるほどねぇ」と相槌を打ちながら、
一節一節心に響かせながら、読み終えた。

「すばらしい表現力ね」
「このまま詩みたいさ」
と、おばちゃんたちは感動している。

最後に、
    「やしがこっこい、
     なんくるならんどー」
という一節をめぐって、
どんな意味なのか、皆で楽しい議論になる。
「やしが」は方言で「だけど」の意。
では、「こっこい」はどういう意味なのだろう?

「こっこい」は一般には意味のある言葉ではない。
相槌を打つことば。
拍子を取って、音の響きを楽しむ方言だ。

「やしがこっこい」は、敢えて訳せば
「だけど、どっこい」という感じかなぁ。

おばちゃんたちの中で
別の説が浮かび上がってきた。
「Coccoさんの名前は
 『こっこい』から来ているのだろうか。
 Coccoさんは、おばあさんから幼い時に
 『こっこい、こっこい』と呼ばれていたのでは?」

ひめゆりの資料委員会は、こうして
大いに脱線を楽しんだ。

ちなみに、ひめゆりの方々は数年前に
Coccoさんの祖父、眞喜志康忠さんを招いて
講演会(勉強会)を行ったことがあるという。
眞喜志康忠さんは沖縄芝居の大スター。
若い頃は「芝居しい」と馬鹿にされながらも
苦労して努力を重ね、
沖縄の文化に新たな美の基準を築き上げた人だ。
貴族の流れを汲む首里方言とは異なった、
庶民の言葉としての沖縄共通語を確立し
沖縄芝居を、村芝居のレベルから芸術の域へと引き揚げた。
ひめゆりの“学級委員長”、本村つるさんは、
お兄さんが眞喜志康忠さんと小学校の同級生だったという。
本村つるさんは、眞喜志さんの苦労と活躍を
陰ら見守ってきたのだった。

その後、Coccoさんのファンの、
青森出身のKMさんから送られてきた長い手紙を
読み合わせる。
とてもよく考え、練られた
珠玉の言葉が綴られている。
おばちゃんたちも感動するし
僕自身がとても多くのことを教えられた。

KMさんの手紙はすごく長いので、一回では紹介しきれない。
数回に分けてになると思うけど
明日以降、きちんとご紹介させてください。

2006年12月14日

もう一人のアンネ・フランク(1) 青森出身のかなえさんから

きょうから何回かにわたって、青森出身のかなえさんからの手紙をお伝えします。
手紙なのでタイトルは無いのだけれど、
後半になって彼女が語る大きなテーマを踏まえ
「もう一人のアンネ・フランク」と題しました。
この手紙から僕は多くのことを教えられました。
長くなるけど、全文をご紹介します。
きょうは、その第一回目―――。


    こんにちは、始めまして。
    ひめゆりの風、柴田さんの風、Coccoの風を受けて、
    今、私の風として、手紙を書かせて頂きます。
    28歳、東京でアルバイトをしながら、
    絵本を作りたいなと日々のことから学んでいます。

    私は“三沢基地”という米軍にとっての重要な基地の1つを持つ
    青森県の南部に生まれました。
    戦争に関してはずっと反対の立場で生きてきたけれど、
    9.11以降、戦争に対する世界の意識の盛り上がりの中で、
    “戦争反対”“平和を”という言葉さえ、どこか言葉ばかりが先走り、
    一人歩きしているようで(自分の中でも、世の中でも。)
    いつの間にか、それを自分の力で、“自分の言葉”として、
    しっかり掲げられる自信がなくなってきていました。

    ふと気づくと、私は戦争の事をあまりよく知らない。
    戦争を知らなければ戦争を反対できないし、
    平和を感じられなければ平和を求めることができないかもしれない。
    イラク戦争の時も、アフガニスタンの戦争の時も、
    もっともっと自分の言葉に自信が持ちたかったから、
    何か知りたいと想うようになりました。

    そんな中、2006年夏、私は沖縄へ行き、
    ひめゆり平和祈念資料館を訪れました。
    以前からいつか訪れよう・・・そう想っていましたが、
    大きなきっかけを与えてくれたのはCocco。

    彼女が沖縄戦のことに触れる事は以前からあって、
    雑誌などで読み聞くごとに想いは強くなっていました。
    2006年8月15日、
    「たくさんの人が世界平和を願うその日に
    自分の愛する場所をちゃんと愛したい。
    皆がそれをしたら、それが世界平和だから」 
    そんな想いが込められたCoccoさんのライヴが
    沖縄で行われました。
    これを機に、私は今回ひめゆりを訪れることにしました。
    8月15日、ちょうどこの日、ライヴでCoccoさんは、
    柴田さんや資料館の皆さんもご存じの通り、
    ひめゆり平和祈念資料館についての話をしてくれました。

    訪れることを決めた時から、どこか心の中にありました。
    柔な恐れ。平和ボケ。
    よく戦争や平和(の活動)に興味がないという人から聞く
    遠い国の出来事、遠い過去の出来事。
    知らないほうが楽で、楽しく生きられる・・・
    というような(私にとっては)ちょっと逃げ腰の気持ち。

    知るのであれば中途半端に受け止めたり、
    通り過ぎたくはなかったです。
    でも受け止めるとなると、これからどんな、
    どれだけ重たいものを引き受けるのかしら・・・
    そんな力が自分にあるの? 
    そういうことに自信がなかったんです。

    Coccoさんの話してくれた元ひめゆり学徒の皆さんの勇気、
    私の見たCoccoさんの勇気。
    それがすごく美しいと想ったから、
    知ることで背負うものがあるのなら、
    私もこの肩をさし出そう。
    ライヴの後、そんな気持ちでした。

    翌日、ひめゆりの搭を訪れました。
    観光客の間をぬって平和祈念資料館へと
    足を進めました。
    夏の暑い日差しのその奥に静かに存在していた
    ひめゆり平和祈念資料館。
    館内に入ると穏やかな広いエントランスの空間に、
    窓から自然光が心地よく届いていたように記憶しています。

    展示室の展示品1つ1つ、
    私はできるだけ丁寧に目を通していきました。
    自分の中にちゃんと覚えておきたかったから。
    そしてある展示室・・・
    私が元ひめゆり学徒の方々の“ビデオでの語り”を
    見ていた時です。
    お話する声が別の場所から聞こえてきました。
    見ると、そちらに老婦人がいらして、
    病棟となった壕の説明をされているようでした。
    「語ってくれる人がいる・・・」

(つづく)

2006年12月15日

もう一人のアンネ・フランク(2) 

昨日に引き続き、青森出身のかなえさんからのメッセージを紹介します。

(前回からつづく)

    何年か前、もしかしたら、あれは、
    ひめゆりの方だったのかもしれません。
    私、自宅であるテレビを見ていて、
    沖縄のある平和祈念資料館で
    戦争体験を語ってくれる人がいることを知りました。
    「戦争を若い人たちに体験して欲しくはない。
    でも追体験はして欲しいのです」と。
    その言葉は、何故だか、強く心に刻まれていました。

    だから、語って下さる方を見つけた時、
    「追体験しにきたんだよ」 
    そんな気持ちで近づいていきました。

    その人は、広島から来たという目の不自由な2人の男性に
    語っていらっしゃいました。
    壕の中の様子・・・。
    壕の中での生活や治療、仕事の様子。

    お話を聞いて驚きました。
    お話の内容以上に、むしろ自分の反応。
    涙は出てきませんでした。
    胸のあたりがひっかかれ、乱され、
    ボロボロ落ちていくような、
    そんな感覚を覚えました。

    心が・・・泣いているということ? 
    私は戸惑いました。
    お話の1つ1つ、
    戦時下においての“日々の事”として語られる1つ1つが、
    私にはどうしても上手く想像できないし、
    ありえない事でした。

    頭では上手く理解できない、
    感情でも寄り添えない。
    でも自分自身が“戦争だから”で飲み込みたくない事実。
    小さな事なんです、傷口を消毒するとか、水を飲むとか・・・。
    そこに“戦争だから”で許されてはいけない、
    飲み込めないものがありました。

    今まで私は教科書、映画、TV、本、
    様々な方法で(受身ですが)
    いくらかは戦争のことを学んでいました。
    でも多くは、やはり児童、学生であるからとか、
    公衆のメディアであるからとか色々で、
    たぶん表現の調節もされ、
    ショックを受けるような事実も
    伝わる時にはオブラートに
    包まれたものだったのだと感じています。
    理解できる範囲で導かれていくので、
    飲み込むこともできたし、
    涙にもすんなりたどり着いてしまえました。

    語られたお話は、
    簡単には行けない場所にありました。
    人間として受け入れたくないということ、
    自分の体験からは想像を超えてしまっているということ、
    そのハードルにぶつかったまま、
    私はお話を、
    “わからない痛み”や“わからない恐ろしさ”や
    “わからない気持ち悪さ”として
    自分に手繰り寄せ、
    わからないなりに感じようとしました。
    今まで遠目で“わかった”としていたものを、
    手さぐりさせてもらっていたのだと想います。

(つづく)

2006年12月16日

もう一人のアンネ・フランク(3) 

引き続き、青森出身のかなえさんからのメッセージを紹介します。

(第3回)

    そして何より、語る彼女の“今”を見ては
    当時の“彼女”を頭の中で重ね、
    “そんな場所”にいた人が今、
    こんな平穏(とも言いきれはしませんが)な
    “私と同じ日々”の中に生きている・・・。
    そういう、1人の人物に対する2つの背景のギャップを
    埋められずにいました。

    自分と同じ“平和”を共有しているその人が、
    自分が決して共有することのない一つの“戦争”を
    抱えて生きているという目の前の事実。
    そしてそのギャップを埋められない自分がいるということ。

    私はいつの間にか、紛争の絶えない地域の人々を見る時も
    心のどこかで
    「そんな風に生まれたら戦争って
     あたり前になってしまうのかもしれないな・・・」
    というように、
    自分のいる所から線を引いていたんじゃないかな、
    そんな気がしたんです。

    あの時、目の前にいらした元ひめゆり学徒の方・・・
    1人の人間が、戦争がなければこうして暑い夏の日、
    静かな建物の中で整った服も着て、
    くつもはいて人と話をしている。
    のどが渇けば水だって飲める・・・。
    あたり前の事なんですけれど、そのあたり前を
    改めて感じていたのです。
    ずっと、バカみたいに情けないけれど、
    頭でわかったつもりになって、リアルに感じていなかったんです。

    戦争を知らない私達が
    メディアなどを通して心に刻んでいく多くの戦争には、
    いくらか予想できる感情の流れや訴えが組み込まれていて、
    そこに答えも用意されているものも多いです。
    でもその答えが事実とは限らない。
    そんな中ですんなり涙や悲しみにたどり着いてしまって、
    くり返すごとに、
    その“流れに慣れたこと”を “わかった”と勘違いして
    しまうかもしれません。

    体験者の方のお話の1つ1つを
    五感で感じとろうとした時、
    私は戸惑いました。
    でもその戸惑いの中で受けとめた感覚は、
    勘違い・・・よりは少し、真実に近いもので
    あったのではないかなと想います。

(つづく)

2006年12月17日

もう一人のアンネ・フランク(4) 

引き続き、青森出身のかなえさんからのメッセージを紹介します。

(第4回)

    もう1つ、お伝えしておきたいことがあります。
    ひめゆりを訪れて、自分の中で繋がった人がいました。
    アンネ・フランク。

    一般に小中学生が彼女と出逢うように、
    私は小学生の頃、アンネの日記と出逢い、
    そこからアンネ・フランクに強くひき込まれていきました。
    遠い外国の少女でしたが、
    そこに綴られる日々のこと、
    彼女の性格のどこかに自分を重ねてみたりして、
    1人の友人のように、私は彼女に
    心で寄り添っていったのだと想います。

    でも彼女は戦争によって大切なものをたくさん奪われ、
    ついに命も奪われてしまいました。

    私は戦争を憎みました。
    本を読んでいくうちにではありますが、
    尊敬し信頼できる友人をふいに失ったも同然で、
    すごく悔しかったし、ショックだったのです。

    アンネの亡くなった年齢を越える時は心が引きしまったし、
    彼女の平和への願い(魂)は引き継ごうと
    心に決めてさえいました。

    でも、いつの間にか・・・
    大人になると何だか遠くなってしまった気がして、
    自分自身を愛せること、
    自分の周りを愛して大切にできているかなということ、
    そういうことすら、できたりできなかったり。

    アンネの想いを引き継げているの?
    その為に何か特別のこと、できているの?
    そういうことに自信はなくなっていました。

    そんな時、今回、私はひめゆりを訪れて、
    出逢ったのです。
    もう一人のアンネ・フランク。

    ライヴでCoccoさんも触れていましたけれど、
    資料館では亡くなった1人1人がちゃんと1人1人で、
    私と同じ顔のサイズ程の写真があって、
    名前も性格もあって、
    「数」ではなく対面することができました。
    もちろん多くのことはわからないけれど・・・。
    でも悲劇だけではなく学校生活や持っていたもの、とか、
    その人たちの“喜び”“悲しみ”・・・。
    そんな“その人”に触れることが少しはできたんだと想います。

    アンネがこんなにたくさんいたんだね・・・。
    ふとそんな風に感じて、気づいたんです。

    生き残ったアンネ・フランクがいる・・・と。

(つづく)

2006年12月18日

もう一人のアンネ・フランク(5) 

引き続き、青森出身のかなえさんからのメッセージを紹介します。

(第5回)

    衝撃的でした。
    アンネは終わっていなかったのに、
    何でその事に気づかなかったんだろう。

    失われた彼女の命に対して
    諦めの方が強くなっていた自分に気づき、
    悲しかったのです。
    自分はどうして止まってしまっていたのだろう・・・と。

    生き延びた元ひめゆり学徒の皆さん・・・
    語ってくれるアンネがいて、
    私はそこからもっとつないでいくことができるんだと知りました。

    自分の中で、
    「もしアンネが生きていたとしたら?」
    を想像する時、
    「小説家か女優さんになれたかもしれないのに・・・」と、
    彼女の“夢”を組み立てる事しかしていませんでした。
    でもそれは“戦後”のアンネ像ではなかったのです。
    もし彼女が生き延びた時、
    そこにどれだけの悲しみを抱えて生きていくのか、
    そこをちゃんと感じた事がなかった。

    「戦争は終わっていない」
    そういう言葉を初めて実感しました。
    戦争は実際起こった事実で、
    “悲しかった過去のお話”なんかではなくて、
    その事実は存在していく。
    体験した人たちの中では終わるものではない。
    戦後のアンネを元学徒の皆さんに重ねた時、
    私はもう一度、アンネに近づいた気がしました。

    生き延びた元ひめゆり学徒の皆さんから
    さしのべられた手。
    その手を通して、
    私はもう一度アンネ・フランクと手を繋げたような、
    そして自分自身の想いと
    手を繋げたような気がしました。

    それはすごく私に力を与えてくれて、
    とても嬉しかったです。

(つづく)

2006年12月19日

もう一人のアンネ・フランク(6) 

引き続き、青森出身のかなえさんからのメッセージを紹介します。

(第6回)

    私は沖縄を訪れるまで、
    知ることを恐れていました。
    でも、知る事は 力でした。

    知ったから背負うのではないし、
    知った後 
    何もできない自分の無力を嘆くということでもない。
    自分の足で立って背負える以上のことは
    結局背負えるわけではないし、
    “背負う”とか“肩をさしだす”とか、
    そんな大それた事の前に、
    まだ自分が強くなれるし、
    自分の手や足・・・“力”が強くなった時、
    今よりも多くを抱えたり運んだりできるようになる、
    というだけのこと。

    勢いや流れのようなものに乗っかって
    安易に掲げられた“平和”や“戦争反対”という、
    ひどくもろい言葉に自信を失くすより、
    言葉を理解して、自分のものとして話すことができる時、
    自分自身は一歩、願う方に進むのではないかなと
    想えるようになりました。

    そしてそれは「生きる」「死ぬ」「愛する」・・・
    「殺す」・・・
    そんな言葉1つ1つにも繋がってくる気がします。
    今、自殺する子供達のこととか、
    様々に人の手で奪われる命のことが
    多く問題になっているけれど、
    1人1人の中で抱くその言葉が、
    本来その言葉の持つ意味ほどに真実を
    持ち合わせていたなら、
    命という言葉、命そのものの力は、
    もう少したくましくなれるのではないかな、と。

    決してひとまとめにすべきことではないけれど、
    でも、そんな風に、
    知る事の大切さを想いました。

    私は“ひめゆり”の真実を知りませんでした。
    過去の真実も、現代までの真実も。

        (11/28のブログを受けて妹に確認したところ、
        私の妹(25)は戦争や平和の話をよく2人でしますが、
        でもひめゆりのこと、全くといっていい程知りませんでした。)

    戦争のこと、平和のこと、
    そういうものが知りつくされ、語りつくされ、
    それでもなお、人や国が戦争を起こす方向に近づいていくなら、
    希望を見つけるのは難しいです。

    でも、まだまだ、多くの人が
    真実を知らないのかもしれません。
    真実を受けとったら、受けとった人にとって、
    今よりもっとリアルな“平和”が浮き上がって
    見えてくるのではないかと想います。

    そこには可能性があるはずです。

    平和はもっともっと強くなる余地がある。
    私は自分自身にそれを感じたし、信じています。

(つづく。明日が最終回です)

2006年12月20日

もう一人のアンネ・フランク(7) 

青森出身のかなえさんからのメッセージ、今日が最後の部分です。

(第7回:最終回)

    映画“ひめゆり”、
    ひめゆりの事を知らなかった人達にも、
    1人でも多く届いたらいいなと願っています。

    この手紙を書いていて、
    こんなにもあなたは知らなかったの?と
    誰かに問われてしまいそうなほどの
    自分の無知を感じています。
    長くなった言葉の全部が皆さんの時間をさいて
    本当に読んでもらうべき言葉だったのか。
    ありきたりで余計なことも
    いくつかあったかもしれません。

    でも1つの例にでもなればと、
    自分の中に起きた事を(無知の事実さえ)
    伝えたかったです。

    ―― 元ひめゆり学徒の皆さん ――
    戦争を語るという痛みの作業・・・
    そのお話を頂く時、申し訳ない想いでいっぱいです。
    「何も辛い事、想い出さなくてもいいです。
    皆わかるんです、もう大丈夫、無理しないでね」
    そんな風に言えたら、
    そして安心してもらえる何かが見せられたら、
    どんなにかいいのに・・・。
    そして無知や未熟さが何度も
    皆さんを傷つけた事もあったと思います。
    今でもそう・・・そこにいる1人は私なのです。
    ごめんなさい。
    自分達の想像力、手繰り寄せる力、
    そういうものがもっと強かったらなぁ・・・。
    今はただ心して受けとっていきます。
    少しずつ強くなります。
    「大丈夫」という、その言葉に近づけるように、
    私にできることをちゃんとしていきます。

    ―― 柴田監督 ――
    夏にひめゆりを訪れた後、
    私は自分の想いを誰に伝えたらいいのか、
    わかりませんでした。
    ものを作る人だから、自分の力に変えて、
    絵や、作品、そういうものに表現できる事も何よりですが、
    でもやっぱり直接、元学徒の皆さんにも伝えたかったです。
    監督のブログをみて
    Coccoさんの想いが“おばぁたち”に届いたのは嬉しかったし、
    Coccoの風としてメールを送る若い人達の想いを
    柴田さんが繋いでくれていることも嬉しかったです。
    それぞれに感じながら・・・
    でも、ちゃんと伝え合うと力になります。
    風の吹く場所・・・
    監督のブログを見て、
    私もこうして手紙を書いて、
    それが私自身の力になりました。


    元ひめゆり学徒の皆さん、柴田監督、
    ひめゆり平和祈念資料館の皆さん、
    手紙を書いていて、途中、
    何度も何度も言いたかったです。
    でもいっぱいすぎて、変な文になっちゃうから、
    最後にしましたよ。
    ―― いっぱい いっぱい いっぱい
          ありがとうございます ―――

    お体 大切になさって下さい。
    たくさんの喜びと笑顔に、皆さんが包まれますように。

    ひめゆり平和祈念資料館
    ひめゆりの塔
    映画ひめゆり

    ここに込められた願いと祈りが、
    たくさんの人の平和の力となりますように。


2006年12月21日

絹の花柄のワンピース

昨日まで7回にわたって掲載させていただいた
青森出身のかなえさんからのメッセージ。


「もう一人のアンネ・フランク」というとらえ方は
僕も今までまったく気づかなかった。
ひめゆりのおばちゃんたちと一緒に
アンネ・フランクの家に行ったこともあるけど、
 (資料館リニューアル時に勉強のため)
僕の中でも、あの物語はあそこで終わっていた。
もしアンネが生きていたら・・・。
KMさんの考察はとても鋭いし深い。


また、「知ることは力でした」という言葉。
大切な指摘だと思う。


映画「ひめゆり」から感じて欲しいことも
戦争の具体的な知識を得ることではなく、
知る喜び、感じる力、見つめる力。
自分自身の存在と感性を信じる勇気。


かなえさん、ありがとうございました。


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きょう、青山ブックセンター(東京・表参道)の
『8.15 OKINAWA Cocco』発売記念写真展に行ってきた。
昨年8月15日に沖縄で行われたCoccoさんのコンサートを
撮影した写真などが展示されている。


印象に残ったことが2つある。


ひとつは、Coccoさんが舞台で
ひめゆりのおばちゃんたちについて語っているときの姿が
等身大で展示されていた。
眼に静かな決意をたたえた彼女の表情。
直接、語りかけられているようで、どきどきする。


もうひとつは、コンサート時の衣装が展示されていたこと。
白い花柄のワンピース。
シルクの丁寧に織られた美しい生地。
このスカートに「ひめゆりの風」が吹いたんだ!


ケース内に展示されている衣装は、
どこか中国シルクロードの数千年前の香りが漂う上品なものだけど、
Coccoさんが着ると、現代に命が甦る。
小さな身体に秘められた彼女の存在感の大きさを
改めて感じた。


この写真展は、12月25日(月曜)まで。

2006年12月23日

一歩前進

来年5月から予定している
東京・ポレポレ東中野での劇場公開、
一歩前進しました。

朝一回の上映、いわゆる「モーニングショー」だけでなく
夕方の時間まで、1日3~4回上映してもらえることになりました。

多くの方々が映画「ひめゆり」を観る会に
登録していただいたことも大きく後押ししてくれました。
皆さん、本当にありがとうございます。

期日はまだ確定していないけど、
6月23日、つまり沖縄戦が終結した
「慰霊の日」をはさんでの
4週間ということになりそうです。
5月末から6月末という線が強いです。

そこできちんとお客さんが入るようであれば
8月にも再度上映の可能性もあります。

劇場側としては、
公開実績のない監督の作品なので不安だろうけど、
大きく場を開いてくれようとしています。
僕としても、
この映画の存在を一人でも多くの人に知ってもらえるよう
努力したいと思います。

またポレポレ東中野の劇場の1Fは
ちょっとしたアートギャラリーになっているけれど、
その場を何らかの形で活用してはどうかとも
提案されています。
何が伝えられるのか、考えてみたいと思います。

皆さん、今後ともどうぞご支援よろしくお願いします。


2006年12月24日

小道具

ポスター、チラシのデザインの
ラストスパートに入っている。
デザイナーの市川千鶴子さんが
「風」にこだわって意匠してくれている。
「ひめゆりの風、Coccoの風」の「」だ。
素晴らしいポスターができそうだ。
あとほんの少しだけ手直しすれば
80点のものが120点にも200点にもなりそうで、
そのために
新たな撮影をしようということになった。

きょうは、追加撮影のための小道具調達に奔走。

家の大掃除を少し手伝ったが、
クリスマスらしいことは家族に何もしてあげられなかった。

ようやくこの時間になって、
長女へのクリスマス・プレゼントにと思って
KMさんの影響を受け、
「アンネの日記」を近くの書店に探しに行ったが
見つからなかった。

父親らしいことが何もしてあげられず
申し訳ない・・・。


2006年12月25日

映画評論家・村山匡一郎さんから

さきほど、映画評論家の村山匡一郎さんから
この映画についてのコメントが届いた。

村山さんは、内外の映画祭等で審査員やコーディネーターを務められ、
世界の映画人から厚い信望を得ている方だ。
11月27日の試写会に来てくださった。

そして、きょう、映画「ひめゆり」のチラシ掲載のために、
次のようなコメントを送って下さった。

    『ひめゆり』は、沖縄戦で犠牲になった
    「ひめゆり学徒隊」の生存者による証言が中心だ。
    今はのどかな表情を見せる昔の戦場を前にして
    紡がれる彼女たちの言葉は、
    たんなる歴史の解説と違って、
    見る者の想像力を強く刺激し、
    残酷で哀しい悲劇的出来事を再び蘇らせる。

    それらの緻密な証言を通して、
    刻一刻と追い詰められていく彼女たちの
    過酷な運命が見事に浮かび上がってくる
    稀有なドキュメンタリー映画である。  

とても嬉しいコメントだった。

正直言って、この映画は、
いわゆる普通のテレビのドキュメンタリーのように
日常生活に入り込んで行ったりしていない。
テレビのドキュメンタリーを見慣れている人には
「何、これ?」と思う人もいるはずだ。
「これが映画?」と・・・。


ある若いテレビ・ディレクターが数年前
ひめゆりの生存者を番組化しようとしたことがある。
彼は、撮影にあたって、
おばちゃんたちが家から足を引きずって歩いていく瞬間とか、
病気で入院している生存者を撮ろう努力した。
「今は年老いてしまった」ということを強調しようとしたのだ。

でも、おばちゃんたちは、嫌がった。

彼は善意で撮っていた。
「ひめゆり学徒も年老いた。
次の世代へ何らかのことを託さないとならない。
テレビを観ている人よ、
この人たち、かわいそうでしょう。
ぜひ共感してあげてほしい」
という気持ちだったのだろう。

でも、ひめゆりのおばちゃんたちは鋭い。
「利用され、誇張されたイメージを作られる」と察し、
この取材を嫌がった。
ひめゆりのおばちゃんたちは、
戦前は軍に利用され、
戦後は映画界に利用されて、
気づいたらすっかり虚像が出来上がってしまった、
そのことの痛みを抱えている。
だから、取材をする相手にはとてもシビアな目線を注ぐ。


テレビ番組を作っていると、
ついつい、自分が一段高い位置にいると勘違いし、
啓蒙的なモノの言い方になりがちだ。
「教えてあげる」というスタンスだ。
そして、自分の言いたいことを先に決めて
強調するカットを撮っていくことが多い。
短い取材期間で、ある種の「感動メッセージ」を伝えようとすると
そういう口調になってしまいがちなのはよく分かる。
僕も気をつけていないと、そうなりがちだ。

感情や雰囲気を映像で演出するのは簡単だ。
たとえば、
「おばぁが、ある薄暗い家の中にいて、逆光のシルエットで話している」
そんなシチュエーションを作って撮影してしまえば、
「人生の闇を抱えている」というイメージがすぐ出来てしまう。
また、たとえば、
「おばちゃんたちがゆっくりと歩いていく、
 カメラは低いアングルからじっと追う」
という撮り方をすれば、
「健気に時代に立ち向かっていく」
というイメージもすぐ作れる。

それは虚像だ。
何年かこの業界にいれば、誰でもできる。

映画「ひめゆり」は、そうした安易な虚像生産をしたくなかった。

だから、
おばちゃんたちに対して、同じ目線で正面からカメラを構えた。
見下ろすでもなく、見上げるでもなく、「目高」。
もっともシンプルなアングルだ。
 (シンプルは最も難しく、
  カメラマンの精神も技量も要求される。)
編集でも、おばちゃんたちの話を最大限生かすために、
証言と証言の間も
きわめてシンプルな映像でつないだ。

演出家不在、監督不在、
そのように見えることが望ましいと思った。
おばちゃんたちの映画であって
監督の映画ではない、
そうありたかった。

村山匡一郎さんは、このことをもっと強く感じ取って下さった。
そしてもっと深い意味づけをしてくれた。

    紡がれる彼女たちの言葉は、
    見る者の想像力を強く刺激し、
    残酷で哀しい悲劇的出来事を再び蘇らせる。

この映画は、観る人が
自らの想像力の中で作っていく映画である、というのだ。
おばちゃんたちの映画、
監督の映画、ということを超えて、
観る人が自らの想像力の中で映像を作っていく映画。
観る人が、カメラマンにもなり、出演者にもなり、監督にもなる。

それが成功していると村山さんは感じたのだろう。
    「稀有なドキュメンタリー映画である」
という言葉で結んで下さった。

手前味噌になるのでもう止めるけど
村山さん、ありがとうございました。


2006年12月27日

土本典昭監督から

土本典昭監督からお手紙をいただいた。
土本さんは1928年生まれ、
ひめゆり学徒隊の下級生たちと同い年。
日本のドキュメンタリー映画の世界を開拓してきた大先輩だ。


    長編にもかかわらず、ひめゆりの方々の数十日が
    手に取るように伝わり、
    全く長さを感じませんでした。

    同世代の証言者の、ひたむきな伝えたい気持も、
    落ちついた口調でたしかに伝わりました。

    実景や実写フィルムも話を生かすだけに限られ、
    ひきしまった映画になっていると思います。

    今日、はじめて記録するに価する「ひめゆり」が出来ましたことを
    心よりうれしく、また身のひきしまる想いです。

    どうぞキメの細かい上映をいつまでもつづけて下さい。
    同窓会のひめゆりの方々にもよろしくおつたえの程をー。 


土本典昭さんは、『水俣―患者さんとその世界―』(1971年)
という作品で世界的によく知られている。
土本さんの作品を通して、水俣病は広く知られるようになった。
土本さんは、今も水俣病の患者さんたちと向き合いつづけ、
刺激的な作品を発表されている。
「身のひきしまる想いです」という土本さんの言葉には
現役の映画作家としての気概がにじみ出ている。

ずっと見つめ続けている記録者としての責任感。
土本さんから学ぶことは多い。
ありがとうございました。

2006年12月29日

富山県のJSさんへ

「『ひめゆり』の自主上映をしたい、
来年の6月23日の慰霊の日(沖縄戦終結の日)に地元富山で開催したい」
そんなお電話をいただいてから4ヶ月になります。
自主上映会についての初めてのお問合せだったので
スタッフ全員とても励まされました。

その後、あなたから言われました。
「地元の中学や高校に協力を呼びかけるために
 教育委員会に出向いたが、
 戦争や平和というテーマを扱うというだけで嫌な顔をされる」
と。

今や、教育の行政を司る人たちは、
戦争の実相など伝えることを避けようとしているのかもしれません。
広島県の学校でも、
原爆体験者の話を聞くことを総合教育の一環に入れようとしても
県の教育委員会から間接的に反対されるとききます。
直接ダメだと言わず、
それよりも大切なカリキュラムがあり時間がいっぱいだと指示され
実現することは難しいと・・・。
広島市内だけが辛うじて、体験者の話を聞くことを
学校教育の中でできるのだそうです。


あなたからの要請もあり、
「文部科学省選定」というお墨付きを得る努力をしました。

時間がかかりました。
審査にかけてもらうことがたいへんでした。
フィルムを文科省に預けましたが
「いつ審査にかけるか分からない」と言われ続けました。
いろいろな方のご助力があり、
ようやく、今月半ばに審査にかけてくれ
今週に入って「選定決定」の通知が届きました。

これで、教育委員会や学校関係者の方々も
安心して協力していただけるはずです。

ということで、
富山での自主上映会の成功に向けて
ご一緒に頑張って参りたいと思います。

どうぞよろしくお願いいたします。


--(参考資料)---------------------------------


以下、「教育映像等審査規程」
(昭和二十九年文部省令第二十二号)より。

第四条  審査は、申請された映像作品等のもつ教育上の価値を主とし、次に掲げる基準に従つて行う。
一  内容について
イ  正確なものであるか。
ロ  信頼できるものであるか。
ハ  時代の進歩に応じているものであるか。
ニ  心身の発達段階に応じて理解しうるものであるか。
ホ  生活、経験及び興味に即しているものであるか。
ヘ  経験領域を拡充し、豊かにするものであるか。
ト  思考力及び批判力をかん養するものであるか。
チ  教養を高め、生活の向上に資するものであるか。
リ  豊かな情操を養うものであるか。
ヌ  倫理性を高めるものであるか。
ル  学校教育用教材については、幼稚園教育要領又は学習指導要領に示されている教育課程に対する配慮がなされているか。


二  表現について
イ  意図しているものが表現されているか。
ロ  画面が鮮明であるか。
ハ  色彩が適切であるか。
ニ  用語が平易かつ妥当であるか。
ホ  解説に頼りすぎていないか。
ヘ  解説と画面の結合が適切であるか。
ト  録音が適切であるか。
チ  紙芝居にあつては、紙質及び印刷が適切であるか。


三  その他
イ  操作が容易であるか。
ロ  スライドにあつては、指導書又は解説書が適切であるか。


第五条  映像作品等の審査にあたつては、前条に規定するもののほか、次の各号に掲げる事項についても留意するものとする。
一  風教上好ましくないものではないか。
二  商業的又は政治的な宣伝意図の顕著なものではないか。
三  安易な模倣を誘発し、社会的悪影響を及ぼすおそれのあるものではないか。
四  その他中正を欠く意図が感じられるものではないか。

2006年12月31日

歌の合戦 (フィンランド=沖縄)

フィンランドは例年にない暖冬という。
ヘルシンキ近郊(フィンランド南部)では、雪のないクリスマス、
「ブラック・クリスマス」だった。
フィンランド北部では、11月に振った雪が
わずかだけ残っている。


地球の環境が大きな声を上げながら
変動していることを実感する。


今年一年間、
フィンランドと中国・雲南省の2ヶ所で、
人と自然とのかかわりと四季を追って見つめる撮影を続けてきた。
2007年8月放送予定のNHKスペシャル
『世界里山紀行・フィンランド・森とともに生きる』と
『世界里山紀行・中国雲南・竹とともに生きる』
の制作のためだ。
NHKのプロデューサーと5年間にわたって暖めてきた企画が
ようやく実現したのだった。


雲南では、「竹林」をテーマにしている。
内容もさることながら、この作品では、
アジアと日本との共同制作の新たな局面を築こうと試みている。
若い中国人ディレクター・カメラマンのチームに、
NHKの名作「大黄河」を撮った日本人名カメラマンが撮影顧問として参加。
意見をぶつけ合いながら、とても良いチームワークが発揮できている。


フィンランドは、友人から「なんで柴田がフィンランドなの?」とよく聞かれる。
柴田=アジアというイメージが定着しているからだ。
フィンランドは、「フン族の国」。アジアの西端なのだ。
ヨーロッパとしてのフィンランドではなく、
アジアとしてのフィンランドを撮っている。
キリスト教が伝わる前の、古い精神文化。
アイヌのイヨマンテに通じる「熊」への信仰。
「森の王」と人間との共生。


フィンランドの古い詩『カレワラ』はとても面白い。
そこでは、「戦争」のとき、武器を持って戦わない。
歌で戦う。
英雄と英雄どうしが、歌を歌いあう。
どちらが知恵に富んでいるかで勝敗が決まる。
沖縄の古い詩『おもろ』の世界に通じるものがある。


  ついでに言うと、フィンランドと沖縄の共通点がある。
   「変人」=「規格外の人間」がとても尊敬されること。
   これって、のびのびとした社会の実現には
   不可欠だと思う。


妬み、そねみ、過剰な自意識・・・、
人間社会から争いがなくなることはありえない。
生物進化の路程にある動物である以上、
人間の遺伝子には暴力性が組み込まれている。
それを抑制するのが、智慧だ。


フィンランドや沖縄の古い文化に
戦争を回避する、
いや、争いを別の次元へと持っていく人類の智慧が
つまっているように思う。


年末になって塩野七生の『ローマ人の物語』最終巻を読んだ。
ローマ帝国末期に、支配者たちのエゴが生んだ戦争が
いかに土地に生きる住民たちを苦しめたかが印象的だ。
また、カエサル以後に「城壁を取り払う」ことで生まれた平和な時代が、
「城壁を作る時代」に逆戻りすることであっけなく滅んだこと。
平和をもたらす最大の方法は、
武装や防御ではなく、
積極的に人々の心と心を結ぶことだということ。


でも、この本、安倍さんたちが読むと
「やっぱり武装は必要だ」という方向で読むのだろうなぁ。


今、フィンランドのスタッフたちから
北部から南部へ向けて出発したという連絡があった。
新年の儀礼――それは日本の新年の神事のような――の撮影のためだ。
今年よかったことの一つは、
若いスタッフや仲間たちに撮影を任せられるようになったことだ。
これまでは僕が全ての現場を仕切らないとならなかったけど、
いまこうして任せられる人たちが生まれてきて、
ほんとうに嬉しい。
自分自身がもっと楽に羽ばたける。
凍った道路を600キロ、無事に走り抜けて欲しい。


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