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2007年3月 アーカイブ

2007年3月 1日

募集 ポレポレ上映時の看板・幕などを一緒に作ってくれる人

5月から東京・ポレポレ東中野での劇場公開が始まります。
この劇場は、JR東中野駅の目の前。
駅のホームや電車の中から、よく見える場所です。

この劇場で公開中に、大きな看板や、横断幕・懸垂幕を飾ることができます。

下の写真は、ここで「赤目四十八瀧心中未遂」という映画を公開したときの、
看板や幕の様子です。

         (ポレポレ東中野)


●看板 は アクリルで作ります。
   高さ777センチ × 幅157センチ を 3分割して作ります。

●横断幕 は 布で作ります。
   高さ140センチ × 幅640センチ

●懸垂幕 は 布で作ります。
   高さ850センチ × 幅950センチ


作っても作らなくても良いし、業者に頼むという選択もありますが、
僕としては、もし作るのであれば、
ボランティアでやってくれようという皆さんと一緒に
手づくりでやりたいなぁと思っています。


たとえば「ひめゆり」を
「ひ」「め」「ゆ」「り」の4つの部分に分け、
色んな人がそれぞれ一文字ずつデザインする。
東京にいても、地方にいてもできるのではないか。
そんなことを考えています。


興味ある方、ぜひご連絡ください。


なお、僕は3月2日から8日までフィンランドに行って連絡つきにくいですが
ご応募、心よりお待ちしています。

2007年3月 2日

うない

きょう発売の「うない」(琉球新報の発行する生活マガジン)に
僕のインタビューが載っています。
さっき、沖縄の友人から「見たよ」と連絡がありました。
前号のCoccoのインタビューを担当した長嶺陽子さんが
Coccoから聞いたといって映画を観てくれて
インタビュー掲載という場を作ってくれました。


このときも、徹夜つづきの後だったので、
僕の顔写真は疲れきっている、眠そうな顔に写っています。
でも長嶺さんにうまくリードされ、話はリラックスしてできました。
長嶺さんの波乱に満ちた人生もきき、とても共感しました。


では、フィンランドに行って来ます。
電気のない農家に泊まることが多いので、
たぶんブログの更新はできません。


2007年3月 9日

フィンランドより帰国

フィンランドで、古い歌を録音してきた。
「熊歌」=熊祭りの歌。
熊狩りをし、熊の霊を天に送る儀式のときに歌われていた古い歌だ。


    私はおまえの命をもらった、
    お前を食べる。
    申し訳ない、仕方がないのだ。
    耳を食べる、おまえのような鋭い聴覚を得たい。
    鼻を食べる、おまえのような強い嗅覚を得たい。
    目を食べる、おまえのような深遠な視覚を得たい。
    肉を食べる、おまえの生命の力を得たい。
    私とおまえの魂は
    深い絆で結ばれてた。
    私たちは夫婦なのだ。
    お前の頭骨を松の女王の枝に抱かせよう。
    魂よ、金の道を通って
    天へと帰って行っておくれ。


他者の命を得ながら生きて行かざるをえない
人間という動物の宿命を
熊の魂との対話という形で歌い上げて行く。
生命の共生を強烈に歌う「熊歌」に揺さぶられ、
その響きが頭から離れない。


この間、看板などの制作について
たくさんメールをいただいた。
少し整理をしますので、
しばし時間をください。


2007年3月11日

看板製作の方向性

ポレポレの看板・幕について
多数のお問合せ、ご応募をいただき、ありがとうございます。
とても嬉しく思いました。
皆さんからのお便りを拝見した上で、
いま次のような方向を考えています。


多くの皆さんの中で、絵を描いたりデザインを得意とし、
中心となってやっていけるのは
「もう一人のアンネ・フランク」というメッセージ(2006年12月14日~20日)を寄せてくれた
かなえさんかなと思いました。
 (他にも「我こそは・・・」という方いますか?)


そこで、かなえさんに総合デザインをお願いしようと思っています。
アクリル板に絵具・塗料を定着させる方法論も研究してもらった上で
全体のデザインを決めてもらい
彼女の手に負えない部分、
あるいは、彼女がこういう力が欲しいという部分について
皆さんに声をかけさせていただこうと思っています。


かなえさんが方向性を決めるまで
しばしお待ちください。
皆さん、どうぞよろしくお願いします。

2007年3月13日

喜び

フィンランドから帰国し、
すぐまた沖縄へ旅立つ。
東京にいるわずか5日の間、
やらなくてはならないことで溺れそうだ。


    「ひめゆり」パンフレットの色校正
    桜坂での上映のためのさまざまな準備
    局へのフィンランド撮影報告
    中国へロケに行く若いスタッフたちとの内容打合せ
    お世話になった人が北京へ帰るというので送別会
    新しい事務所探し(いま借りている事務所が契約切れるので)
    成田空港へ行き別送品の通関手続き(予定外だった)


ついに今日は、あせってバイクをトラックにぶつけてしまった。

    怪我はない。
    いつもならパニック状態になるところだが、
    きょうは我ながら可笑しくなってしまい、
    かえって腹が据わった。


こんな状態の中でも、良い出会いがあり
救われる思いだ。


     宮本亜門さんから「ひめゆり」試写で見て感動したという電話。
     この映画を取材してくれようという人たちからの励まし。
     看板作りを自らの喜びとしてやってくれようという人たちがいること。
     久しぶりに小泉老プロデューサーと語り合え、上映展開の醍醐味について教えられたこと。
     映画の宣伝を担ってくれる若いスタッフに僕の肩の荷物の多くを引き継げたこと。
     時間を割いて観に行った映画「ディア・ピョンヤン」が素晴らしかったこと。
      (僕は物欲はほとんどなく、優れた作品・アートに刺激されるのが最大の喜び)


明日も朝から夕方まで駆けずり回る。
がんばろう。
     


   

2007年3月15日

沖縄報告

昨日から沖縄です。
空港でNHK沖縄放送局のクルーが迎えてくれました。
「どんな偉い人が来るの?」「すごいスターが来るの?」と期待していた
まわりの人たちは、
柴田恭平ならぬ柴田昌平が出てきたので、がっかりしたでしょう・・・。
沖縄放送局のカメラマンは、僕が新人時代にお世話になった
宮古島出身の大ベテランのNさんで、
僕たちは久々の再会に抱き合って喜びました。


きょう資料館には宮本亜門さんが来てくださっていたそうです。
資料館のスタッフが気づき、
騒ぎ立ててはいけないと気遣いしながら
そっと資料集を差し上げたといっていました。
僕も資料館内にいたけど、気づきませんでした。
宮本亜門さんは一昨日、この映画に寄せてコメントを送って下さいました。
それは近々にお伝えします。


締切間近の原稿を抱えており、
それが終わったら、
またゆっくり書きます。


2007年3月18日

宮本亜門さんから

抱えていた原稿を終えて、少しほっとしています。
明日・明後日、琉球新報に掲載予定のコラムの原稿でした。
新聞に署名原稿を書くのは初めてだったので、
自己紹介と感謝の気持ちを込めて書きました。
明日以降、このブログでもお伝えします。


ところで、先に書いたように、宮本亜門さんから、
この映画についてのメッセージが届きました。


    私の一生のお願いです。「ひめゆり」を観てください。
    出来れば世界中の人に観てほしいのです。
    次の世代に伝えてほしい、現実を感じてほしい。
    心がここに詰まっているからです。
    「ひめゆり」の中で話してくれた方々に
    心からお礼を言わせてください。
    「本当にありがとう」
    その想いを胸に僕も生きて行きます。感謝。


「一生のお願いです」という亜門さんの言葉の重みに
僕は絶句してしまい、
責任の重さを感じて、最初、少しうろたえてしまいました。
でも、亜門さんがいう「心がここに詰まっている」というのは
ひめゆりのおばちゃんたちの心。
それが伝わったのだ、普遍的なのだと改めて思いました。


明日は、ひめゆりのおばちゃんたちの「学級委員会」です。

(沖縄にて)

2007年3月20日

記憶と記録(1)

僕には「親」と呼べる人が沖縄にいる。
「お父さん」「お母さん」と呼べる人が
那覇にも南部にもヤンバルにもいる。
もちろん実際に親戚であるわけではない。
ささいなキッカケで知り合った人たち。
でも本気になって僕のダメなところを叱ってくれる。
困っているときは親身になって寄り添ってくれる。
そんな人たちに育てられながら、
僕は歩んできた。


まだ半人前にすぎない事を自覚しているが、
たまに「柴田さんも少しは大人になったなと思うこともあるよ」と
ひめゆりのおばちゃんたちに言ってもらえるレベルになれた。
そんな意味で、沖縄は僕にとって「生まれ島」、
僕を人として生まれさせてくれた島だ。


沖縄の土を初めて踏んだのは今から約20年前、1988年5月だった。
大学を卒業したばかりで、
放送局の新人として東京で一ヶ月の研修を終えてから
沖縄放送局に赴任した。


那覇に着いて一週間も経たない頃、
最初の「親」、人生の師匠とも呼べる人に出会った。
公設市場で働いていたお姉さんで、
沖縄に身寄りのない僕を家族ぐるみで接してくれた。


この師匠(M姉と呼ぼう)は、僕の仕事に対してはべらぼうに厳しかった。
僕が作る番組、作る番組、ことごとく
「まだ昌平は分かっていないな」と却下された。


「分かっていない」というのは二つ意味があり、
「沖縄のことが分かっていない」ということと
「人間というものが分かっていない」という意味を含んでいた。
「昌平はまだ分かっていない・・・」
放送局の先輩や同僚が「いい番組が出来たね」と誉めてくれる作品でも、
M姉にかかるとこてんぱんだった。


結局、放送局に勤務している間に制作した番組で
M姉の御眼鏡にかなう作品は作れなかった。
1992年、僕はお世話になってきた放送局を辞めた。


(琉球新報への連載から)(つづく)

記憶と記録(2)

M姉が僕の仕事を少しだけ認めてくれたのは、
1995年に制作した「1フィート映像でつづるドキュメント沖縄戦」の時だった。


当時、僕は、1フィート運動の会が米国公文書館から集めた
32万フィートに及ぶフィルムの全てを、
何月何日どこで撮られたものかを特定しようとしていた。
米国から送られてくる未編集のフィルムの冒頭には「キャプション」といって、
カメラマン名、部隊名、日付が簡潔に記されたボードが数コマ写されている。
その記述と、米軍戦史とを付き合せ、
どこでどういう戦況で撮られたものか一コマずつ確定しようとしていた。


毎日毎日沖縄戦の映像ばかり見ていたので、
僕の夢の中も毎夜戦場の情景になってしまい、
眠れない日々がつづいた。
M姉はそんな僕の様子をみて、これまでとは違う仕事ぶりだと感じたという。


M姉からの合格宣言が出たのは1996年のことだった。
当時、フリーの映像ディレクターとして東京で仕事をしていた僕は、
お金を貯めて16ミリフィルムを買っては沖縄を訪れていた。
それは本部町備瀬のシヌグ行事の完全記録をしようとしていた時だった。


10日に及んだ撮影の中頃に、M姉が現場を見学に来た。
神アシャギのある広場の片隅で僕らの撮影の様子をじっと見ていたM姉は、
帰りがけに言った。
「昌平、もう安心したよ」。
意外な言葉だった。
「昌平は、どんなに慌てていても
神アシャギの神への敬意を忘れていなかった。
ちょっとした動作に、神への敬意が見て取れた。
嬉しかった」
10年目にして得られたM姉の合格宣言だった。


M姉の教えの中で最も具体的だったことの一つは、
「人の話は、どこで語られるかによって内容が全然違ってくる」
ということだった。


僕の仕事に置きかえて考えれてみれば、
たとえばインタビューをするとき、
どの場所でインタビューするかによって
返ってくる答えが違ってくるということだ。
僕が「ひめゆり」の記録をするにあたり、
おばちゃんたちの体験を聞かせていただくのに
実際に現地に行って話を聞くことにこだわったのは、
M姉の教えが身に付いていたからでもあった。


資料館の中で語られる話は内省的で説明的になりがちだが、
現地に行ってお話を聞くと、
具体的な事実が次から次へと甦ってくる。
僕はただ、聞き手に徹した。


M姉からは「背中の見える人間になりなさい」とも繰り返し言われてきた。
自分の気持ちを清らかにし、
自分がどんな人間なのかを相手に曝け出せという教えだった。
だから、ひめゆりのおばちゃんたちの話を聞きながら、
「どうぞ教えてください」という気持ちだけに集中し、
全身で話を受け止めようとした。


ドキュメンタリー映画「ひめゆり」は、
沖縄の「親」たちによって作らされた、
いわば「生まれた記録」だと思っている。
僕は「親」たちの思いを媒介したにすぎないのだから。


(琉球新報への連載から)(つづく)

2007年3月21日

記憶と記録(3)

ドキュメンタリー映画「ひめゆり」は、
13年にわたった記録とはいっても、
その間ずっと撮影をつづけていたわけではない。
「とことん記録をしたい」という思いでカメラを回し始めたものの、
最終的にどういう作品にまとめるという当てはなかった。


撮影するときカメラマンとの間で
「僕たちからカメラをストップすることはやめよう、
皆さんが語り終えたと思えるまで何時間でもカメラを回そう」
ということは決めていた。
ひとつのしっかりとした作品にまとめた方がいいと思い始めたのは、
ここ2、3年のことだ。


13年という月日は、
ひめゆりのおばちゃんたちが過酷な体験を語れるようになるまでの
数十年の歳月に比べれば、
ほんの一時にすぎない。
戦場から生きのびた少女たちの多くは、
戦場での出来事を最初は忘れよう忘れようと努力した。
記憶を引きずったまま日常生活を送るには、
その体験はあまりに重すぎたのだ。


戦場の記憶が、人間の心をどれだけ蝕むかを目の当たりにした人もいる。
ひめゆり学徒隊の生存者、宮良ルリさんは、
終戦直後沖縄に初めて設置された精神科病棟で働いた。
1945年7月、羽地村真喜屋(現名護市)の
テント張りの病院にたどり着いた宮良さんは、
「多くの友人たちが死んでしまった。
自分だけ楽な仕事をしていては申し訳ない」と、
つらい精神科病棟の担当を志願した。
そこには戦争のトラウマを抱える沖縄県民が百人以上収容されていた。


患者たちの多くは、最初はひどく暴れ、食事も取らず、
紐で首を吊ろうとするので、裸にして独房に入れられていた。
わずかな物音でも「ああ恐ろしい。怖い怖い」と
怯えて独房の隅っこで縮こまってしまう人、
周期的に暴れるだけ暴れる人、
独房の中で飛んだり跳ねたりしながら逃げまどう人。
そうした患者たちの世話をしながら、
宮良さんは戦争の惨さを改めて認識し、
泣けてたまらなかったという。


心の傷を乗りこえられないまま亡くなった
ひめゆり学徒隊の生存者もいる。
Kさんは郷里の小学校教員となったが、
やがてひめゆりの学園時代(沖縄戦前)を生きている
錯覚を起こすようになった。
症状が悪化して休職、実家で座ったままうつむき、
母親が語りかけても反応がなくなった。
「こんなになってしまって」と母親が嘆くなか、
1950年、亡くなった。
ひめゆりの学園時代には成績優秀で学級委員も勤めていた人だった。


(琉球新報への連載から)(つづく)

記憶と記録(4)

過酷な戦場から生きのびても、
戦後生活そのものが少女たちにとって棘に満ちていた。 


生存者が最も辛かったのは、
亡くなった友達の親御さんと会うことだった。
娘がどこでどのように亡くなったのか、親たちに問われる。
そのたびに「自分だけが生き残ってしまった」と
自らを責めた。
耐えきれず、生まれ島を離れる人もいた。


ひめゆりの物語は1950年代に入ると小説や映画となって
日本全国で大ヒットしたが、
それらは他者がひめゆりを語ったものだった。
殉国の乙女として祭り上げられていった一方で、
当事者たちは口を閉ざした。
「ひめゆりばかりが取り上げられて」という
周囲の視線から逃れるため、
ひめゆり学徒隊の生存者であることをひた隠しにしてきた人もいる。


ひめゆりのおばちゃんたちの多くが、
自らの体験を口にするようになったのは、
戦後40年ほど経ってからだった。
子育てを終え、還暦も近づき、第二の人生を迎えようとする頃、
平和祈念資料館を建設しようという機運が芽生えた。
生存者どうしで頻繁に集まり、互いの体験や思いを確認しあうようになった。


(琉球新報への連載から)(つづく)

2007年3月23日

記憶と記録(5)

富村都代子さんは、戦後すぐ故郷久米島で小学校教員になったが、
1948年に那覇に出た。
この年6月23日ひめゆりの塔の慰霊祭に列席したが、
その夜、悪夢にうなされた。
壕の中に残してきた友達が追いかけてくる夢だった。


というのは、沖縄戦末期の1945年6月18日、
ひめゆり学徒隊には解散命令が下り、
生徒たちは壕を離れ米軍が包囲する戦場の真っ只中に
出ていくことを命じられた。
富村さんがいた伊原第一外科壕には
負傷して動けない生徒9人が寝かされていたが、
彼女たちを壕内に残したまま出て行かざるを得なかったのだ。


富村さんが見た夢は、
壕の入口で友人たちがエモン掛けに吊り下げられてこちらを見ている、
自分が逃げようとすると次々と追いかけてくる、
というものだった。


富村さんは3年つづけて慰霊祭に参加したが、
その度に悪夢を見たため、
ひめゆりの塔に行くことができなくなった。


亡くなった友達のことを考えるたびに
「生き残った自分たちを恨んでいるのではないか」と苦しんだ富村さん。
亡き友たちの魂の苦しみを和らげることができないかと思っていたとき、
資料館建設の話を聞き、活動に参加した。


ひめゆり平和祈念資料館には、
亡くなった教師・生徒たちの遺影が並ぶ展示室がある。
資料館がオープンした18年前、
富村さんはこの部屋に入るのが怖かった。
学友たちの遺影が自分を睨みつけている気がした。
しかし証言員として資料館に通いつづけるうちに
遺影の表情が変わった。
今は友達が微笑みながら楽しかった学園時代の思い出を
語りかけてくるように見えるという。
語ることを通して、戦後ずっと背負ってきた心の傷を乗り越えたのだ。


ドキュメンタリー映画「ひめゆり」にはナレーションはない。
生存者たちの証言で構成されている。
語られる内容は重い。
しかし地獄を乗り越えた末に紡がれたおばちゃんたちの言葉は、
凛とした力に満ちている。
過酷な記憶を掘り起こし、自らの言葉にするまで、
おばちゃんたちには数十年の時間が必要だったのだ。


(琉球新報への連載から)(終)

2007年3月24日

桜坂前夜祭

沖縄・桜坂劇場での前夜祭が、夢を見ているような状況のまま終わった。
300席は満席。
桜坂劇場には昼間から問合せの電話が多く、
劇場側は「本日はいっぱいで並んでも入れないかもしれません」と
お知らせしている状況だった。
このブログを読んでくれている若い人の中から
わざわざ神奈川・千葉から上映を観に来てくれた人もいた。


ひめゆりのおばちゃんたちも18人が観にいらした。
おばちゃんたちは、編集段階からこの映画を観ているが、
一般の方々とともに鑑賞したのは初めて。
多くの皆さんが映画をしっかり受け止めてくれたことを
とても喜んでいた。


ようやく動きだしたこの映画。
僕はばたばたとしていて、まだ実感がない・・・。
劇場公開は初めての経験なので
これだけ多くの方々が来てくださったことに
驚きと戸惑いと、「これから本当に大丈夫かなぁ」という不安。
これが喜びに変わるには少し時間がかかるのだろう。

桜坂ロードショー初日

桜坂でのロードショーが始まった。
13:10/16:00/19:00の一日3回上映だ。
きょうは初日。


1回目(13:10)は会場が満席となり、補助席を出して入っていただいたが、
たいへん申し訳ないことに、たくさんの方に次回までお待ちいただくことになった。
2回目(16:00)は8割、
3回目は6割の入りだった。
僕も一緒に拝見して、
皆さんがどのように受け止めるか確かめようとした。
若い方々からの反響が大きく、
「友だちにも映画に来るよう声をかける」と言ってくれた言葉が
とてもありがたかった。


昨日も書いたけど、
僕はまだ実感が湧かない・・・というか、
嬉しさ以上に、明日からは大丈夫だろうかという不安でいっぱい。


いずれにせよ、この映画は世の中に生まれたのだ。
映像は観ていただいて初めて
フィルムという物体から、記憶へ刻み込まれる追体験=映画ととなる。


ひめゆりのおばちゃんたちの言葉が
多くの方々の心に届くことを祈りつづけるばかりだ。

2007年3月25日

桜坂 続報

日中は、与那覇百子さんの家に行き
戦前や戦後の歩みをインタビュー。
夕方から桜坂劇場に足を運んだ。


1回目は満席。
2回目は8割。
3回目は4割。
夕方の回の上映については、桜坂劇場の方が当初、
「お客さんが期待できない」と設定することをしぶっていたけど
僕らが「若い人に来てもらいたいから」と無理にお願いして設定してもらった。
だから、次の時代を担う若い人たちが
たくさん足を運んでくれるまでには至っていないなぁ。
あとは、どういう努力をすればいいのだろう。


明日からは平日なので、
お客さんの入りはぐっと下がるだろうと、過度な期待はしないでおこう。
ちなみに、明日はひめゆりの「学級委員会」だ。


【お知らせ】
 明日の琉球朝日放送(QAB)、夕方6時からのニュース枠で
 23日の前夜祭の模様が放送されるとのこと。(沖縄県内のみ)
 また、3月23日の朝日新聞の夕刊「窓」でも
 紹介された。(全国版)
 3月24日の琉球新報朝刊の4コマ漫画は
 ひめゆり上映時のオバァたちのやりとりがユーモラスに描かれて愉快です。

2007年3月26日

沖縄のおとうさんより

沖縄の「親」の一人、山内昌英お父さんが、3/23の沖縄タイムスの論壇に投稿してくれた。
20代後半の僕をよく知る人だ。
お父さんが投稿した原文をここに掲載させていただきます。
 (ただし、このブログの読者はまだ映画を観ている方は少ないと思うので、
  映画の内容を紹介している部分だけは除かせていただきました。)


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   この映画を監督した柴田昌平は、1988年東大の文化人類学科を卒業した。
   卒業の年にNHKのディレクターに採用され、初任地の沖縄放送局に赴任した。
   巨躯に鎧われていなければ、内に秘めた繊細さと頼りなげなさが今にも外に溢れ出て、
   存在そのものが消えてなくなりそうな危うさを感じさせる青年であった。
   3年半の沖縄勤務を経て東京へ転勤したが、
   内に湛える繊細さが組織との折り合いを悪くしたのか、
   ほどなくNHKを退社してフリーのドキュメンタリー作家になった。


   これまで何本ものドキュメンタリーを制作して数々の賞を受賞しているが、
   なかでも中国に取材したドキュメンタリーを得意にしており、
   一昨々年には文化庁の助成を得て1年間の中国留学も経験している。


   これまで「ひめゆり」は4度映画化されている。
   いずれも16,7歳の乙女が、国のために若い命を捧げるという
   殉国美談の「ひめゆり」である。
   およそ自分達とは似ても似つかぬ香川京子や
   吉永小百合が演じる美女に大きな隔たりを感じ、
   フィクショナルに構成された映画が上映されるたびに、
   ひめゆりの生存者の方々は落胆と憤慨を繰り返してきたという。


   柴田が沖縄局の報道特報部に勤務していたころ、
   そのような映画で見知った「ひめゆり」に対する成心から、
   トンチンカンな質問を発して生存者の失笑を買うこともあったようであるが、
   ひたむきに接する真摯な姿勢が次第にひめゆりの方々に信頼されるようになった。
   ひめゆり平和祈念資料館の開館5周年に製作された、
   生存者の戦争体験を映像に遺すドキュメンタリーの監督を
   依頼されたのもそのような信頼があってのことであろう。
   それが1994年に完成した「平和への祈りーひめゆり学徒の証言」である。
   歴史的1回性の悲惨な体験を生々しく語る生存者の物語は重く、
   極限を生きた体験は万言を費やしてもなお語り尽せなかったため、
   その後も13年に亘って22名の生存者の物語を撮り貯めてきた。
   使用された16ミリのフィルムは100本以上にもなったが、
   2時間10分に編集し直おされた本ドキュメンタリーは、
   その時間の長さを全く感じさせない。


   この世のものとも思えない体験談が次々と語られるが、
   戦場の修羅場に投げ出された証言者の物語は、
   言葉が内包する思惟を喚起し、
   証言の合間に挿入される即物的な実写フィルムをはるかに凌ぐ
   想像世界を拡げてくれる。


   思春期の過酷な体験がトラウマとなり、
   いまだにその戦場体験を口にしえない生存者の方も多くいると聞くが、
   この映画で物語られる戦場の実相は、
   どのような過酷な状況の中でもそれに耐えて生き抜く命の尊さと、
   失われた命に対する大いなる慈しみに満ちている。


   私の父も防衛隊員として摩文仁で戦死したと聞かされている。
   もちろん死に場所も分らなければ遺体もない。
   墓室には摩文仁で拾ってきた数個の石が入れてあるだけである。
   証言者の語る物語を聞いていて、父がどのように死んでいったのか、
   おぼろげながら見えるような気がする。
   多くの人にこの映画を見ていただき、生の沖縄戦がどのようなものであったのか、
   是非追体験して欲しいものである。
 
            山内 昌英 (戦争孤児、63歳)

          

「学級委員会」報告

ひめゆり「学級委員会」では前夜祭の反省会が行われた。
この映画がひめゆりのおばちゃんたちにとってどんな意味があったのか、
2つのことを発見した。


ひとつは、ひめゆりのおばちゃんたち、
これまで自分の子供や家族には直接、自らの体験を語ることができないでいたが、
この映画を通して、ようやく、自らの体験を子供や家族に伝えることができた、
ということだった。


前夜祭には、おばちゃんたちのお子さんやお孫さんたちも見えていた。
家に帰ってから
「おばあちゃん、若い頃はかわいらしかったんだね」とか、
「あんなところを歩いたんだね」と
言われたという。
やはり、面と向かって家族に話すことは並大抵のことではないのだ。


もうひとつは、亡くなった友だちの遺族との「和解」が、
この映画をきっかけに出来たことだった。


おばちゃんたちは、戦後ずっと
亡くなった友だちや遺族に対して「申し訳ない」という思いを抱いて生きて来た。
一方で、亡くなった生徒のご遺族にとっては、
「あなたが悪いのではない、戦争が悪いのだ」と生存者たちに言っても、
心の奥底では「なぜ自分の娘(姉妹)を連れて来てくれなかったのか」という思いが
完全に払拭できたわけでもなかったのだ。


映画を観にきてくれたあるご遺族が
おばちゃんたちに夜分に電話をしてきて、次のように言ったという。


    「あんなごつごつとした岩の上を歩いて逃げたんだね。
    生きのびる方が軌跡だったことが、よく分かった。
    これまで『なんで一緒に連れて来てくれなかったか』と
    思うこともあったが、
    この映画を観て、そんなことは不可能だということが
    わかった」


現場でインタビューをしたことが
遺族と生存者との間の「心からの和解」につながった・・・。
僕にとっても、この話を聞いたとき
映画を作って本当によかったなぁと思えて、涙が出そうだった。


ちなみに、きょう月曜日の観客数は
1回目およそ7割、2回目、3回目は4割の入りだった。
桜坂劇場の平日の動員数としては「記録的」だけど、
やっぱり、若い方々にもっと来てもらえたらなぁと思う。


沖縄に限ってだけど、
小学生・中学生・高校生・大学生・専門学生は
2人以上で来てもらえれば、1人500円という
破格の入場料を設定している。
ぜひ来て欲しい、
観て欲しい、
おばちゃんたちの体験や思いを受け継いで欲しい・・・
と思っている。

2007年3月27日

きょうの沖縄は雨

きょうの沖縄は前線が通過して雨。


午前中はひめゆり同窓会館で
与那覇百子さんのピアノ演奏と
ピアノにまつわる少女時代のエピソードについて撮影。
(内容の一端は映画のパンフレットに書いています)


午後は、前野喜代さんのお宅に行ったが、
天気が悪いため撮影は明日に延期。
(朝7時半から・・・)


これから桜坂劇場に行って来ます。

2007年3月28日

南風原へ

朝7時に出発して、前野喜代さんをご自宅に迎え
南風原陸軍病院跡へ向かった。
前野さんの学園時代の親友、小浜島出身の嵩原さんについての
お話をうかがう。
嵩原さんは、戦前の教育への絞め付けが厳しくなっていく時代に、
「英語を“敵国語だから”といって必修から外すのは間違っている」と
学校の教育方針に疑問を呈した人だ。
戦場動員後、南風原陸軍病院で犠牲になった。
きょうの南風原陸軍病院跡は、蚊と蝿がものすごかった。


午後は、大城信子さんの生家へ。
信子さんの実家は、南風原町に古くからつづく名家。
沖縄戦で母親が戦死したため、
信子さんは戦後、教員になる夢をあきらめ
家を守る決意をした。


これから桜坂に行こうと思う。
昨日は、平日にもかかわらず13:10の回は満席だった。
きょうは、どうなっているだろう・・・・?


夜半からは、NHK沖縄放送局の若いスタッフたちと
勉強会だ。

2007年3月29日

学園跡

ひめゆりの学園(沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校)は
戦争で学園そのものが無くなった。
戦後、跡地は市場・歓楽街となった。
那覇のメインストリート、国際通りの北端に近い
栄町市場の一帯だ。


きょうは大見祥子さんに、
学園の跡地を案内してもらった。
天真爛漫な大見さんに案内してもらうと
まるで16、17歳の女学生たちの楽しい青春時代の姿が
目に浮ぶようだった。


これからまた桜坂劇場へ。
昨日は、1回目は8割以上、2回目3回目は3、4割ほど。
そうそう、一昨日、小学校3-4年生ぐらいの姉妹が来ていた。
「難しかった?」と聞いたら、
「すごくよく分かった、おもしろかった」というので驚いた。
この姉妹、劇場のロビーにあったパレスチナの本を指して
「これはどういう戦争なの?」
と質問していた。


その後は、RBC(琉球放送)の若いスタッフたちと
交流会だ。

2007年3月30日

公開一週間

きょうは読谷村に新崎昌子さんを訪ねた。
琉球王朝の身分の高い貴族の家系に生まれ、
父親は昌子さんが1歳半のときにアメリカに渡った。
アメリカからの仕送りで育った昌子さんは
「鬼畜米英」という標語が唱えられる中でも
卒業後はアメリカに渡りたいという気落ちを
抱き続けていた。


夕方、プロデューサーの大兼久(おおがねく)が東京から沖縄入りした。
沖縄出身の彼女にとって、
諸般の事情で封切りには立ち会えなかったが、
沖縄でのロードショーへの思いはひとしおだ。


公開が始まって1週間になる。
この一週間、平日も、桜坂劇場の客入りは、
劇場始まって以来の賑わいを見せているという。
初回は毎日ほぼ満席に近く、
昼、夜も堅調だ。
この波がもっともっと高まってくることを
スタッフ一同、祈っている。

2007年3月31日

千葉県のNHさん(21)から ~沖縄戦の集団自決“軍関与”教科書から削除について~

千葉県のHNさん(21)さんから、いま届いたメールを紹介したい。
NHさんはCoccoさんのファンで、
『想い事。』を通してこの映画のことを知り、
3月23日、初めて、ひめゆり平和祈念資料館を訪ねた。
この映画の前夜祭にも来てくれた。


    本日の夜、7時のNHKニュースで放送していたことに関して
    メール致しました。
    柴田さんはもうご存知かもしれませんが、
    高校生の歴史の教科書から
    「沖縄戦の集団自決における“軍の関与”の記述を削除する」とのニュース。
    驚きました。
    戦争から十数年と沈黙を保ってきて、
    臭いものには蓋の時代がようやく終わると想っていたのに・・・


    なぜ、いまになってなんでしょうか?
    やっとあの世界が少しづつ公にされようとしているなか、
    残念でなりません。
    こうして沖縄戦の真実から遠のく若い世代が生まれるんですね・・・


    強制しない日本兵がいたのも確かですが、
    ほとんどが強制することを求めたでしょう。
    それに、そういうように出来上がった社会だったこともまた事実。


    やはりこの映画には意味があるようです。
    もっともっと若い世代、これからの人に知って欲しいですね。


NHさんからこういうメールをもらうことを
まったく予想していなかった。
とても嬉しかった。


たとえ教科書がどう書き換えられようと、
事実を変えることはできない。
時代が大きくハンドルを切ろうとする中で
この映画は、撮影を始めた頃には想像もしていなかった
大きな意味を持つのかもしれない。


「ひめゆり」は、何かを声高に叫ぶようなことはしていない。
恨み節もない。
けっして暗い映画ではない。
重たいけど、おばちゃんたちの、静かだけど真実の語りは、
みんなの心に届くはずだ。


Coccoさんの言うとおり、
「忘れたい」ことを話してくれてありがとうと、
おばちゃんたちに、改めて言いたい。

記憶を「共有財産」に

沖縄・桜坂劇場がはじまって以来の
観客動員率になっている「ひめゆり」。
口コミの効果もあり
日を追うごとにお客様の数は増え、
きょう1回目は150パーセント、
2、3回目もほぼ満席だった。


あと6日でここでの公開の幕が下りる。


石垣島の方から電話があった。
「ぜひ離島にも映画を運んで欲しい。
 いま、文化は那覇止まりになりがちだ。
 もし八重山での上映の具体的なメドが立たないのなら
 私が中心となって、役所や島の人たちに働きかけたい。」
とてもありがたい申し出だった。


次回は、映画を持って、島々、村々をめぐりたいという気持ちが
僕たちスタッフの中で芽生えつつある。
6月23日(沖縄戦の終結日)に間に合わせることは無理かもしれないが、
夏休み頃には、沖縄全島・全村に映画を届け、
この映画で語られている「記憶」が
多くの人たちの「共有財産」となるような体制が作れればと
考え始めている。
それを支えてくれる仲間たちの輪も
少しずつ広がりつつある。


応援してくださっている皆さん、本当にありがとうございます。

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