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2008年04月 アーカイブ

2008年04月04日

横浜YWCA上映会

きょうは僕のカミさんの誕生日。
カミさん、数週間前に転んで頭を打ったのだが、
このところ毎日夕方になると頭痛と眩暈がするというので、
急遽、病院に行き検査をすることになった。
結果は脳には異常がなく、一安心。
原因はたぶん疲れと貧血。
カミさんからは、
「私の誕生日に『ひめゆり』の上映会があるのはうれしい。
 早く上映会に行って」
と送り出してもらった。


訪れたのは横浜YWCA主催の上映会。
10代から80代まで老若男女、
およそ320名の方々が観てくださった。
僕と、カメラマンの澤幡さんが招かれ、トークをした。
司会をしてくれた24歳の三股さん、
この日はじめて『ひめゆり』を観たというが、
まっすぐな心で映画を受け止めてくれて、
彼女の感想を出発点にしながら、話が進んだ。


横浜・上映会での感想を、三股さんがHPにアップしてくれている。
http://hiratsukaywca.fc2web.com/eiga.htm
http://hiratsukaywca.fc2web.com/himeyuri.htm
感想にあるように、若い人たちに観てもらえたのが、何よりうれしい。


横浜での上映会が終わってから、すぐに高崎に向かった。
高崎映画祭で、特集上映されている
アレクサンドル・ソクーロフの作品群を観るためで、
新幹線に飛び乗った。

高崎映画祭(2)

シネマテーク高崎に駆け込んだ。
高崎映画祭の企画「アレクサンドル・ソクーロフ特集」のうち、
『エルミタージュ幻想』と『ロストロポーヴィッチ 人生の祭典』を観た。
『エルミタージュ幻想』は2時間が1カットで作られた映画として有名で、
以前、NHKスペシャル『新シルクロード』を制作するときに
担当プロデューサーと一緒に、新たな発想を得る参考にと観たことがあった。
きょうは、技術的にどこかにあるはずのカットの繋ぎ目を見極めようと画面を凝視したが、
分からなかった。
(観た目は1カットだが、技術的には無数の断片をつなぎ合わせているはずなのだ。
 が、うまく合成されていて分からない・・・)


『ロストロポーヴィッチ 人生の祭典』は、20世紀を代表するチェリスト、
ロストロポーヴィッチをとらえたドキュメンタリー。
最後の10分間で、それまでの1時間半の映像コラージュがすべて繋がる
見事な映画だった。
これ、テレビだったら、おそらく僕は途中でチャンネルを変えていただろう。
映画ならではの、最後の最後で大きな「裏切り」があって、
それまでの映像体験をひっくりかえし、別の次元へと僕らを運んでくれる。
ダイナミックな表現だ。
ソクーロフ監督が、ロストロポーヴィッチの心を開いて撮影させてもらったことも凄いし、
映像構成も強烈だった。


巨匠ソクーロフ監督に即して言うのもおこがましいが、
『ひめゆり』も、最後の10分で、それまでの流れを裏切り、
観る人の心を予想外のところへ運んで行く点は共通している・・・、
と思う。(自己満足?)
テレビのドキュメンタリーと、映画との大きな違いを改めて思った。


夜10時過ぎに映画を観終わってから、
高崎のミニシアター、シネマテーク高崎のスタッフ
(高崎映画祭の中核スタッフでもある)と飲みに行った。
高崎は、キリンビールの工場があるだけに、
新鮮でおいしいビールが安く飲めることにびっくり。
シネマテーク高崎の代表、茂木正男(通称モギマサ)さんは、
去年ガンの手術をして抗がん剤を飲んでいるにもかかわらず、
ビールをがんがん飲む 。
たぶん無理して僕に付き合ってくれているのだろう。そんな心意気の人だ。


茂木さんが言う。
「最初、『ひめゆり』という映画のことを聞いたとき、
 “ なんて時代錯誤なんだろう、絶対みたくない ”と思った。
 これまで『ひめゆり』という名の映画をいくつも観てきて、辟易していたからだ。
 ところが、志尾(シネマテーク高崎、33歳の若き女性支配人)が、
 どうしても『ひめゆり』をやりたいという。
 それで仕方なく観てみたら、観る前と観終わった後とで、
 まったくモノの見え方が違っていた」


去年の11月に高崎映画祭のプレイベントとして『ひめゆり』を上映してくれたのも、
そして今回の映画祭特別賞につながったのも、志尾睦子さんという若者の熱意が発端だったんだ!
嬉しい驚きだった。


茂木さんは、ホップの泡を飛ばしながら、つづける。
「『ひめゆり』は、これまでの戦争をあつかった映画とまったく違う。
 品があり、良い意味でイロのついていない、透明感のある映画だ。
 女性が過酷な状況に置かれるなかでどういう運命をたどるのか、それを描いた点で
 今のイラクやアフガニスタンなどの状況ともつながり、普遍性を獲得している」
高崎の人は、誉めるのがうまい。
だからだろうか、高崎映画祭には、大スターや大監督たちがつぎつぎと足を運ぶ。
あのソクーロフ監督も、茂木さんの熱烈なラブコールによって、
1996年に1週間、高崎を訪れたという。


ビールが進む中、茂木さんが、『ひめゆり』の今後の映画製作についての
斬新なアイディアを出してくれた。(内容はまだ秘密)
できるかどうか、良いかどうか、すぐに答えは出せないが、
真剣に考えてみたい。

2008年04月05日

高崎映画祭(3)

高崎からの帰り道、電車に乗りながら書いている。
駅で買った駅弁(鶏めし)を食べながら、
この弁当のあり方と、高崎の人たちのあり方が
似ているなあと思う。
高くない弁当だけど、鶏そぼろ、鶏肉焼き、照焼等、
ひとつひとつの具がしっかりと味付けられ、
素材が選び抜かれている感じがする。
つまり「粒より」だ。
盛り付けられた全体は、「鶏」というコンセプトでしっかりとまとまりながら、
巨大な梅干しや紅コンニャクによって不思議な変化が生まれ、
強烈な後味を残す。
高崎映画祭のスタッフも「鶏めし」みたいだった。
粒よりで精鋭、調和しながら個性を発揮する。


きょうは午前10時から『ひめゆり』の上映があった。
客席には、若い人や、近隣の学校の先生なども多く、
とても有意義な上映だった。


シネマテーク高崎の茂木代表、志尾支配人が言った。
『ひめゆり』を夏にまた映画館で上映してくれる、と。
同じ映画を3たび上映するのは、シネマテーク高崎はじまって以来なかったことだが、
ひとりでも多くの人に『ひめゆり』を観てもらいたい、
映画に報いたいのだという。
うれしく、かたじけない思いだった。


人口23万の都市ではミニシアターの運営は不可能といわれる。
その不可能に挑戦しているシネマテーク高崎。
運営は、NPO法人たかさきコミュニティシネマが担う。
昨年12月にスクリーンを増設するために大きな借金をしたというが、
その経営を圧迫しないよう、
多くの人の声をかけ、赤字にならない上映にしたい。
群馬県の方、ぜひ、どのように声かけをしていったら良いか、知恵をください。

  ~  ◆  ~  ◇  ~  ◆  ~  ◇  ~  ◆  ~  ◇  ~  ◆  ~  ◇ 

    高崎だけでなく、全国各地のミニシアターが今夏、
    『ひめゆり』の上映、再上映に踏み切ってくれます。ありがとうございます。
    詳しくは追ってお知らせしますので、皆さん、ぜひ応援してください。

  ~  ◆  ~  ◇  ~  ◆  ~  ◇  ~  ◆  ~  ◇  ~  ◆  ~  ◇ 

最後に、昨年11月、高崎映画祭で『ひめゆり』など戦争を扱った映画5本を上映したときに、
若き支配人、志尾睦子さんらが中心になって書いた文章を紹介したい。
ごく普通に暮らす若い世代にとって、過去の事実をどのように受け止めたらよいのかを考えた、
ほんとうに素晴らしい文章なので、ぜひ読んで欲しい。

高崎映画祭オータムレート チラシより

   【繋ぐ未来のために】
   戦争とは、悲しく惨い事である事を誰もが知っています。
   だからこそ、「戦争」の二文字を聞いただけで、
   その実体に踏み込むことを 私たちは敢てしようとしません。
   怖いからです。
   今回集められた5作品は、戦争の惨さを映像で
   押し付けるものではありません。
                        人が人として生きる事を奪いとられた戦争があった、
                        そのことを伝えてくれる人がいる限り、
                        私たちはその言葉を受け取るだけで、
                        その想像の向こう側に行くことが出来るのです。

    【ひめゆりについて】
    『“忘れたい事”を話してくれてありがとう。
     “忘れちゃいけないこと”を話してくれてありがとう。』 
    沖縄出身アーティストCoccoが寄せたこの言葉が、
    何よりもこの『ひめゆり』を端的に表している。
    そして、本作を手がけた柴田監督は、これを「希望の映画」だとおっしゃる。 
    第二次世界大戦末期、地上戦となった沖縄の地では
    女学生までもが戦場へ送られた。
    本作は、戦場で凄まじい体験をし生存した「ひめゆり学徒」の方々の証言を
    13年に渡って集めた作品である。生存者たちは80歳前後。
    辛く悲しく惨い出来事が、その体験をした現地で語られてゆく。
    青々と茂る草木に埋もれた洞窟の前で、穏やかな風がそよぐ海岸で、
    彼女たちは未来のために、今なお鮮明に思い出されるかつての出来事を伝えるのだ。
    自分たちが語らなければ残っていかないことを知っている、
    その言葉たちは未来への希望となって私たちの胸に刻まれるだろう。

2008年04月06日

明日から沖縄へ

明日から沖縄へ。
久しぶりに、ひめゆりの「学級委員会」に出席する。
   (正式名称は「資料委員会」)
今後の撮影のこと、そしてアニメ製作のこと等がある。

今回は沖縄にゆっくりと滞在し、初心に帰る旅としたい。

2008年04月16日

深呼吸

沖縄での一週間。
海の中でたっぷりと深呼吸をしてきた。
疲れきっていた体も心も、少し元気を取り戻した。

広島での上映を応援してくれていたちぴぴさんが14日に、初めて沖縄へ一人で旅して来た。
紅型を染めている縄トモコさんを紹介。
縄さんは工房から独立し、作家として歩き始めていた。

近況報告

沖縄から戻って元気がよみがえり、まわりを見回す余裕が少しできた。
近況報告を。


桑原美波さんの新作小説『夢霊(ゆめだま)』(講談社)を読む。
美波さんは、「看板娘」のひとり。
  (昨年『ひめゆり』ポレポレ東中野での公開時に
   ボランティアで看板を作ってくれたので「看板娘」と呼んでいる)
物語世界に一気に引き込まれ、体の底にとっても素敵な感覚が芽生えながら読み終えた。
カミさんは、仕事と家事の合間に、美波さんのデビュー作『ソラカラ』を、
「すごい、すごい」とうなりながら読んでいる。
美波さんの描く人物たちは、どうしようもなく不条理な状況の中でも、
夢や青空を見つめ、自らの生を肯定していく。
毒気や苦味というストーリーテリングの常套手段を使わずに、ドラマチックで爽やかに語りきる。
すごい筆力だ。


小説でいうと、沖縄滞在中に、池上永一の『風車祭』と『バガージマヌパナス』 を読んだ。
池上さんは、沖縄の石垣島出身の若き作家で、どちらも故郷石垣島を舞台にした
ユーモラスでしみじみとする物語。
沖縄文化の根っこを知る手がかりとしてもお薦めできる。
なお、『バガージマヌパナス』は第6回日本ファンタジーノベル大賞受賞作。


スイスで上映を画策している友人、Sayakaのホームシアターで
「ひめゆり」をご覧になったNagasakaさんの感想が、彼女のブログに。
素敵な文章だと感激、以下のそのアドレスを紹介したい。
  http://mnagasaka.exblog.jp/7592855/


1年かけて僕らが製作したNHKドキュメンタリー番組
フィンランド・森・妖精との対話』(昨年8月にNHKスペシャルとして放送)が
ドイツの映画祭(World Media Festival)で銀賞を授賞したという連絡が来た。
ホッとした、西欧世界で評価をしてくれる人がいたことに・・・。
というのも、映像詩という形の作品だが、
キリスト教文明のあり方を根底から問い直そうとしているからだ。
この作品は、これからも欧米各地の映画祭に参加していくとのこと。
フィンランドの人と自然との関係を見つめたこの作品、
その内包する世界の力を信じたいと思う。


きょうは5年ぶりに健康診断(人間ドック)に行った。
酒を控え、運動をするようにとのこと。
でも大きな異常はなく、少し安心。

2008年04月18日

「風の人 宮本常一」 佐田尾信作著

中国新聞の佐田尾さんが書いた本の書評を書かせていただいた。
すでに中国新聞や熊本日日新聞、京都新聞などの書評欄にも掲載されたものだけど、
皆さんにも紹介します。

  ~  ◆  ~  ◇  ~  ◆  ~  ◇  ~  ◆  ~  ◇  ~  ◆  ~  ◇

『風の人 宮本常一』
   佐田尾信作著、
   2008年、神戸・みずのわ出版
   2100円(税込)
   詳細は→ http://www.mizunowa.com/book/book-shousai/kazenohito.html 

書評

 この本を携えて、中国山地をはじめとする日本の村々を歩いてみたくなった。開拓で築いた村、中世の面影をそのまま残す村、ダムに沈んだ村。そこには必死に生きる「地の人」たちがいた。「地の人」たちを訪ねて詳細な記録を残して歩いた「風の人」がいた。
 その「風の人」が宮本常一。戦時下に師である実業家渋沢敬三から「この戦争は負ける。戦後の日本社会の再建のために、日本全国を歩いて、そこで見聞きしたものを戦後へつなげてほしい」と言われ、全国を旅した。戦後、宮本の教えによって大勢の若者たちが地域に入り込み、調査をしながら、地域づくりに深くかかわった。
 本書は宮本が出会った人たちや教え子たちを今の時代に訪ねたものだ。著者は普段は聞くことのないこうした人たちの記憶と思いに迫ることで、知られざる宮本の人物像を浮かび上がらせる。まさに「旅する民俗学者をめぐる人と時代の物語」(帯文)である。 「宮本先生は放火魔です。消防車が来ないだけ」と笑う稲垣尚友は、「職人はいいぞ」と宮本に焚きつけられ今は竹大工を営む。「サラリーマンにはなるな」という宮本の考えのもと、民の姿と自らの接点を模索した人の激しい息づかいに圧倒されそうだった。
 宮本の古い弟子の一人に記録映画監督の姫田忠義がいる。僕はその姫田の弟子で、宮本からすると孫弟子と言えるかもしれない。僕は姫田から常々、こう教えられた。「犬も歩けば棒に当たる、当たった出会いを大事にせよ。その時、相手を見下しもせず、へりくだりもせず、同じ目線に立て。そして飯を食う金があったら、フィルムを回せ」。全国公開中の僕の作品「ひめゆり」は、宮本から姫田へと伝わった方法論の延長にあると思っている。
 宮本が残した遺産は膨大で、著作集は刊行開始から40年近くたつが、今も完結していないという。宮本の故郷の周防大島にも3年間勤務した著者は、等身大の宮本を探り出そうとする。本書は中国新聞の連載を改題、改稿した。固定観念で語られがちな宮本像を揺るがし、その多様さを印象付ける一冊である。

2008年04月19日

全国映連賞・麻生久美子さん

全国映連賞の2007年度の監督賞に選ばれ、きょう授賞式があった。
岩波シネサロンで、あたたかく賑やかなパーティーが催された。
『それでもボクはやってない』の周防正行監督(同じく監督賞)、
『夕凪の街 桜の国』の麻生久美子さん(女優賞)、
『パッチギ Love&Peace』の中村ゆりさん(女優賞)らが集った。
主催の映画鑑賞団体全国連絡会議は、各地の自主上映を中心に活動する映画ファンの集まりで、
現在39団体が加盟している。
その加盟団体のベストテンを集約して「全国映連賞」を決めたという。


麻生久美子さんの隣に座る機会があった。
『夕凪の街 桜の国』の麻生さんの演技に心底感動していたので
その思いを伝えることができた。
いつ原爆症が発病するかもしれない恐怖を抱えながら生きる女性を演じた麻生さん。
その清楚で美しい存在感は、『夕凪の街・・・』の映画の中核だった。


麻生さんは、子供の頃、お祖母さんから戦争体験を聞かされ、
それがあまりに恐ろしかったため、以後、戦争などのテーマから避けてきた、
『夕凪の街・・・』の話があったとき、広島の人の思いを裏切らないように、
しっかりと広島の人たちの体験に向き合おうとしたという。
広島・呉の映連の人が、「麻生さんが映画で話していた広島弁は、
今の広島では聞けなくなった、美しい本当の広島弁だった」とも言っていた。
麻生さんが、『ひめゆり』はまだ観ていないがぜひ観たいと言ってくれた。
とっても嬉しい。機会を作りたい。


パーティのあと、二次会、三次会と参加。
明日からは、また沖縄。
1月に引き続き、ひめゆりの、これまで証言を撮れていない方々の撮影だ。

2008年04月27日

新たな証言撮影から戻って

昨夜遅く、沖縄の撮影から戻った。
昨年公開したドキュメンタリー映画『ひめゆり』は、
ひめゆり学徒隊の生存者22人の証言を13年にわたって記録をし、まとめたものだが、
まだまだ証言を記録できていない人がたくさんいる。
映画の完成後も、今年に入ってから2度にわたって、
これまで証言を撮影できなかった人たちの記録を試みている。
1月に4人、そして4月に入ってからの今回、3人の方の証言を記録した。


沖縄の4月は、梅雨を前にした穏やかな天気がつづく。
海岸にはテッポウユリが咲いていた。
63年前に沖縄戦が始まったのもこの季節。
毎年この季節になると戦場の記憶がよみがえり
夢にうなされるという人も多い。


今回お話をうかがった人の中には、撮影予定日の前日になっても、
話そうか、止めようか、迷っている方がいた。
これまでは僕は、そういう人に対しては、強く声をかけることはしなかった。
思い出したくない記憶をよみがえらせるのだから、
無理強いをしては絶対にならないからだ。
でも今回は、何度も電話をしたり、家を訪ねたりして、
お話をすることを強く頼んでみた。


ベーシックなところでは、ひめゆりの生存者の宮城喜久子さんが
まだ語っていない同級生たちに
『話した方がいいよ』と強く勧めてくれていた。
『話さないとあとで後悔をするよ、話すと楽になるよ』
喜久子さんが今年の初めから3ヶ月以上かけて、出演交渉をしてくれていた。
プロデューサーの大兼久(沖縄出身)も何度も電話をかけ、気持ちをほぐしてくれていた。
だけど年を取りすぎて記憶に自信がなかったり、
自分の体験は皆ほど過酷ではないから果たして役に立つのだろうかと
尻込みをするのだ。
あるいは、自分の住む村の近くに、もっともっと重い心の傷を負った人がいるので、
その人を差し置いて自分が語っていいものだろうかと思い悩むのだ。
そして「あの戦場だった場所にまた行ってほしい」と僕が頼むものだから、
それも心を重くさせる・・・・。


でも、お会いして話をした感触からは、
ためらいながらも、協力をした気持ちがあることは確かに感じられる。
亡くなった友達の無念な思いに報いたい、
ひめゆりのためにも協力をしたい、
そして何よりも未来の平和のために役に立てるのだったら
役立ちたいという気持ちをお持ちだということは、伝わってくる。
だから、僕もしつこく粘ってみた。
ここで出演交渉を断念すると、
語れなかった皆さんが「やはり自分はだめだった」と思い、
かえって心の澱になってしまうのではないかと、僕は危惧した。


皆さん、ほんとうによく決心をしてくださった。
不安を抱えながらも、お一人ずつ、僕らとともにあの戦場跡へと向かった。


Hさんだけは、100歳になる母親を看病しているため遠出は出来ず、
ご自宅のすぐ近く、沖縄本島北部の八重岳へ登った。
八重岳も沖縄戦の激戦地のひとつで、
ひめゆり学徒と同じように学徒動員された沖縄県立第三中学校の
生徒たちの慰霊碑が立つ。
Hさんは慰霊碑の前で手を合わせながら、次のような祈りの言葉を口にした。
  「ここで亡くなった三中の皆さん、
   私も、皆さんと同じように学徒動員された者です。
   私はここから遠く離れた南部の戦場にいました。
   これから私の南部での戦争の跡をたどってみたいと思います。
   理由があって遠い南部の地まで行けませんが、
   ここで語ろうと思いますので、
   皆さん、どうか見守って、お通しください」
Hさんの決意に接して、僕の心はふるえ、涙が出そうだった。


「コトノハ(言葉)は語れても、コトノネ(事の根)は語れない」
今回の撮影の中で、お二人からこの言葉を聞かされた。
ひめゆりの引率教員だった仲宗根政善さんが戦後に語っていた言葉という。
「どんなに語っても、あの戦場の様子は語りつくせないです。
 今でもありありと目の前に浮かぶようだけど、言葉にはならない。
 『コトノハ(言葉)は語れても、コトノネ(事の根)は語れない』
 仲宗根先生がよく言っていたけど、ほんとうにそうだねえ」
語りつくせない戦場の悲劇。
でも、今回口を開いた彼女たちは、みな安堵した表情だった。
「聞いてくれてありがとう」
皆さんが最後にそう言ってくれた。
「こんな時代になってきたけど、未来のためにがんばってください。
 そしてひめゆり資料館がいつまでもしっかりとした場でありつづけるよう
 どうぞよろしくお願いします。」
Hさんからはこう言われた。
ふだんはひめゆり資料館に行かない人たちも、心の底であの場を大切にしている。
その思いをしっかりと受け止めたいと、思いを新たにした。

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