昨夜遅く、沖縄の撮影から戻った。
昨年公開したドキュメンタリー映画『ひめゆり』は、
ひめゆり学徒隊の生存者22人の証言を13年にわたって記録をし、まとめたものだが、
まだまだ証言を記録できていない人がたくさんいる。
映画の完成後も、今年に入ってから2度にわたって、
これまで証言を撮影できなかった人たちの記録を試みている。
1月に4人、そして4月に入ってからの今回、3人の方の証言を記録した。
沖縄の4月は、梅雨を前にした穏やかな天気がつづく。
海岸にはテッポウユリが咲いていた。
63年前に沖縄戦が始まったのもこの季節。
毎年この季節になると戦場の記憶がよみがえり
夢にうなされるという人も多い。
今回お話をうかがった人の中には、撮影予定日の前日になっても、
話そうか、止めようか、迷っている方がいた。
これまでは僕は、そういう人に対しては、強く声をかけることはしなかった。
思い出したくない記憶をよみがえらせるのだから、
無理強いをしては絶対にならないからだ。
でも今回は、何度も電話をしたり、家を訪ねたりして、
お話をすることを強く頼んでみた。
ベーシックなところでは、ひめゆりの生存者の宮城喜久子さんが
まだ語っていない同級生たちに
『話した方がいいよ』と強く勧めてくれていた。
『話さないとあとで後悔をするよ、話すと楽になるよ』
喜久子さんが今年の初めから3ヶ月以上かけて、出演交渉をしてくれていた。
プロデューサーの大兼久(沖縄出身)も何度も電話をかけ、気持ちをほぐしてくれていた。
だけど年を取りすぎて記憶に自信がなかったり、
自分の体験は皆ほど過酷ではないから果たして役に立つのだろうかと
尻込みをするのだ。
あるいは、自分の住む村の近くに、もっともっと重い心の傷を負った人がいるので、
その人を差し置いて自分が語っていいものだろうかと思い悩むのだ。
そして「あの戦場だった場所にまた行ってほしい」と僕が頼むものだから、
それも心を重くさせる・・・・。
でも、お会いして話をした感触からは、
ためらいながらも、協力をした気持ちがあることは確かに感じられる。
亡くなった友達の無念な思いに報いたい、
ひめゆりのためにも協力をしたい、
そして何よりも未来の平和のために役に立てるのだったら
役立ちたいという気持ちをお持ちだということは、伝わってくる。
だから、僕もしつこく粘ってみた。
ここで出演交渉を断念すると、
語れなかった皆さんが「やはり自分はだめだった」と思い、
かえって心の澱になってしまうのではないかと、僕は危惧した。
皆さん、ほんとうによく決心をしてくださった。
不安を抱えながらも、お一人ずつ、僕らとともにあの戦場跡へと向かった。
Hさんだけは、100歳になる母親を看病しているため遠出は出来ず、
ご自宅のすぐ近く、沖縄本島北部の八重岳へ登った。
八重岳も沖縄戦の激戦地のひとつで、
ひめゆり学徒と同じように学徒動員された沖縄県立第三中学校の
生徒たちの慰霊碑が立つ。
Hさんは慰霊碑の前で手を合わせながら、次のような祈りの言葉を口にした。
「ここで亡くなった三中の皆さん、
私も、皆さんと同じように学徒動員された者です。
私はここから遠く離れた南部の戦場にいました。
これから私の南部での戦争の跡をたどってみたいと思います。
理由があって遠い南部の地まで行けませんが、
ここで語ろうと思いますので、
皆さん、どうか見守って、お通しください」
Hさんの決意に接して、僕の心はふるえ、涙が出そうだった。
「コトノハ(言葉)は語れても、コトノネ(事の根)は語れない」
今回の撮影の中で、お二人からこの言葉を聞かされた。
ひめゆりの引率教員だった仲宗根政善さんが戦後に語っていた言葉という。
「どんなに語っても、あの戦場の様子は語りつくせないです。
今でもありありと目の前に浮かぶようだけど、言葉にはならない。
『コトノハ(言葉)は語れても、コトノネ(事の根)は語れない』
仲宗根先生がよく言っていたけど、ほんとうにそうだねえ」
語りつくせない戦場の悲劇。
でも、今回口を開いた彼女たちは、みな安堵した表情だった。
「聞いてくれてありがとう」
皆さんが最後にそう言ってくれた。
「こんな時代になってきたけど、未来のためにがんばってください。
そしてひめゆり資料館がいつまでもしっかりとした場でありつづけるよう
どうぞよろしくお願いします。」
Hさんからはこう言われた。
ふだんはひめゆり資料館に行かない人たちも、心の底であの場を大切にしている。
その思いをしっかりと受け止めたいと、思いを新たにした。