ここ数日、ひめゆりの皆さんたちから幾度もお電話をいただいた。
琉球新報の文化面に書かせてもらった記事(6月11日朝刊)を読んで
「よかった」「自分の苦しみが報われた気がする」「ありがとう」と
わざわざお電話をくださった。
琉球新報に僕が投稿した原稿を、以下に転載する。
以前このブログでも書いたことに、さらに加筆したもので、
少し長いけど、時間があるときに読んで欲しい。
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「コトノハ(言葉)は語れても、コトノネ(事の根)は語れない」
ドキュメンタリー映画『ひめゆり』は、ひめゆり学徒の生存者の方々の証言を13年間にわたって記録し、ひとつの作品としてまとめたものです。これまで記録した証言は全部でおよそ120時間。作品に取り上げたものはわずかにすぎません。
何よりも大事なことは、映画の完成が記録作業の終わりではないということです。映画公開後も、私たちは、これまで記録できていなかった方々を訪ね、証言の撮影をつづけています。今年に入ってから7人の体験をカメラにおさめました。
初夏。毎年この季節になると戦場の記憶がよみがえり、夢にうなされるという人が沖縄では少なくありません。花・草・木・空気・土・岩の様子が63年前のあの時と重なります。むごいようですが、この季節こそ、戦場体験の細部が思い出されて、記憶をたぐりよせ記録するにふさわしい時ともいえます。今年4月、私たちは5人の元学徒の証言を記録することにしました。
ところが、撮影予定の前日になっても、話そうか、止めようか、迷っている方がいました。これまでは私は、ためらう人に対して、強く声をかけることはしませんでした。思い出したくない記憶をよみがえらせるのだから、無理強いをしては絶対にならないからです。でも今回は、何度も電話をしたり家を訪ねたりして、お話をすることを強く頼んでみました。ためらう皆さんは、自分の住む村の近くにもっと重い心の傷を負った人がいるのでそれを差し置いて自分が語っていいものだろうかと思い悩むのです。あるいは、年を取りすぎて記憶に自信がなかいと尻込みをするのです。そして「戦場だったあの場所にまた行ってほしい」と私が頼むものだから、それも心を重くさせる・・・・。
学徒隊生存者の宮城喜久子さんが「語らないと後悔するよ」と同級生たちに何度も語りかけ、説得してくれました。ひめゆり資料館の学芸員の普天間さんや、沖縄(名護)出身のプロデューサー大兼久も何度も電話をして、気持ちをほぐしそうとしました。
皆さん、ほんとうによく決心してくださいました。不安を抱えながらも、お一人ずつ、私たちとあの戦場跡へと向かったのです。
Hさんだけは、100歳になる母親を介護しているため遠出が出来ず、ご自宅のすぐ近く、沖縄本島北部の八重岳へ登ることになりました。八重岳も沖縄戦の激戦地のひとつで、ひめゆり学徒と同じように学徒動員された沖縄県立第三中学校の生徒たちの慰霊碑が立っています。Hさんは慰霊碑の前で手を合わせながら、次のような祈りの言葉を口にしました。
「ここで亡くなった第三中学校の皆さん、
私も、皆さんと同じように学徒動員された者です。
私はここから遠く離れた南部の戦場にいました。
これから私の南部での戦争の跡をたどってみたいと思います。
理由があって遠い南部の地まで行けませんが、
ここで語ろうと思いますので、
皆さん、どうか見守って、お通しください」
Hさんの決意に接して、私の心はふるえ、涙が出そうになりました。
「コトノハ(言葉)は語れても、コトノネ(事の根)は語れない」
今回の撮影の中で、お二人からこの言葉を聞かされました。ひめゆりの引率教員だった仲宗根政善さんが戦後に語っていた言葉だといいます。Hさんは言います。
「どんなに語っても、あの戦場の様子は語りつくせないです。
今でもありありと目の前に浮かぶようだけど、言葉にはならない。
『コトノハ(言葉)は語れても、コトノネ(事の根)は語れない』
仲宗根先生がよく言っていたけど、ほんとうにそうだねえ・・・」
語りつくせない戦場の悲劇。でも、今回口を開いた後の彼女たちは、みな安堵した表情でした。「聞いてくれてありがとう」皆さんが最後にそう言ってくれました。
「こんな時代になってきたけど、未来のためにがんばってください。そしてひめゆり資料館を大切にしてください」
彼女たちは語り部として表に出ているわけではありませんが、忘れたい記憶を心の奥底にしまいながら、静かに未来を祈りつづけているのでした。
私がお会いできていないひめゆり学徒隊生存者はまだ40人ほどいらっしゃいます。すべての方にお会いするのは不可能でしょう。でも歴史を捻じ曲げようとする人たちが台頭しようとしている今こそ、その心をしっかりと受け止めたいと、思いを新たにしました。