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2008年7月 アーカイブ

2008年7月 1日

うれしい電話

嬉しい電話があった。
ひめゆり学徒の生存者で、今年1月になって
証言の撮影をすることのできたZさんからだった。


Zさんは、沖縄本島中部のうるま市在住。
うるま市で、6月22日に『ひめゆり』の上映会があり、
Zさんも観にいらした。
Zさんは戦後教員をしていたが、
教え子たちもたくさん観に来たという。


上映会終了後、Zさんのもとに、教え子たちから
つぎつぎと電話がかかってきた。
「先生、映画、ちゃんと観れなかったでしょう?」
と尋ねる教え子たち。
「いえ、観に行ったよ」
と答えるZさん。
「でも、先生、学校時代は、
戦争の話をしようとすると、いつも泣いて
途中で話せなくなっていたじゃない?
だから、この映画も途中で観れなくなったと思って・・・・」


教え子たちに言われて、Zさんははたと気づいたという。
「考えてみれば、私もこの年になって、
ようやく、この事実に最後まで向き合うことが
できるようになったんだねぇ」


電話口の向こうで、Zさんの声は弾んでいた。

2008年7月 6日

スクリーンの向こうに天国が見える

日本カトリック映画賞をいただき、4日に授賞式があった。

http://blog.livedoor.jp/documentary_himeyuri/archives/51176391.html


最終選考まで、『夕凪の街 桜の国』にするか『ひめゆり』にするかで議論し、
『ひめゆり』に決まったという。
32回目になるというこの賞だが、
選考の最終的な判断基準は、
「スクリーンの向こうに天国が見えるか」
という点だと聞いた。


ひめゆりのおばちゃんたちの語りの先に、
愛と平和への希望を見た、
天国を見た、という。


明日はまた僕は沖縄へ。

2008年7月12日

別辞

6月、悲しい別れがあった。


記録映画の巨匠、土本典昭監督が
6月24日、沖縄・慰霊の日の翌日に、静かに旅立たれた。
土本さんは、『ひめゆり』の完成後、まもなくご覧になり、
以後ずっと応援してくれていた。
これは、土本さんが送ってくださったコメント。


     長編にもかかわらず、ひめゆりの方々の数十日が手に取るように伝わり、
     全く長さを感じませんでした。
     証言者のひたむきな伝えたい気持も、落ちついた口調でたしかに伝わりました。
     実景や実写フィルムも話を生かすだけに限られ、ひきしまった映画になっていると思います。
     今日、はじめて記録するに価する「ひめゆり」が出来ましたことを心よりうれしく、
     また身のひきしまる想いです。


80歳近い記録映画の監督に「身のひきしまる想いです」と言われ、
こちらは、恐縮至極、穴があったら入りたいような気持ちだった。
土本さんは、折にふれ、「天声人語に出たね、よかったね」などお手紙を下さり、
僕たちを励ましつづけてくれた。


先日、NHKのBSの深夜枠で、土本さんの代表作、
『水俣病・患者さんとその世界』が放映された。
土本さんは、奇をてらわず、水俣病の患者さんたちにまっすぐに寄り添い、
その姿と想いを撮っていた。
このときの撮影助手だった一之瀬正史カメラマンは、
『ひめゆり』の撮影も参加してくださり、
芸術文化振興基金に助成金を応募するとき、
書類の作り方も指導してくれた。


土本監督のご冥福を心よりお祈り申し上げます。


  ~  ◆  ~  ◇  ~  ◆  ~  ◇  ~  ◆  ~  ◇  ~  ◆  ~  ◇

6月6日、埼玉新聞編集委員を務めた近田洋一さんが
急逝した。
沖縄出身の近田さんは、1972年の沖縄本土復帰当時、
琉球新報のデスクとして、沖縄の世論を引っ張っていた。
しかし沖縄が本土復帰したとき、結局は基地つきの返還で、
米軍のいない平和憲法下に入るという夢がたたきこわされた。
近田さんは、「沖縄にいては本土の人には伝わらない、
本土に渡って、本土の人に沖縄のことを伝えたい」と
埼玉新聞へと移った。


昨年4月、『ひめゆり』のマスコミ試写会のとき
上映後、ひとりの髭面の親父さんが急に立ち上がり、
並みいるマスコミ陣の前で語り始めた。
  「僕は長いこと沖縄で新聞記者をしていたが、
   ひめゆりの方々の話は、いくら聞こうとしても聞けなかった。
   それがこうしてドキュメンタリー映画として観れたこと、
   ひめゆりの皆さんがこれだけ語ってくれたことに驚いた。
   マスコミの皆さん、ぜひ、この映画を応援してください」
これが、近田さんと僕との初めての出会いだった。
近田さんが、緊張して声が出ない僕にかわり、見事に挨拶をしてくれた。
そのとき以来の、お付き合いだった。


近田さんの名セリフ。
  「最もシンプルで、核心を突いた『憲法論』は『ひめゆり』です。
  100回学習するよりも『ひめゆり』を一度見ましょう。」


7月31日に予定されている埼玉での上映会
近田さんが「埼玉の人に広めたい」と企画したもの。
上映会は、いま、近田さんの友人たちの手で
着々と準備が進められている。
良い上映会になって欲しいし、
僕も、近田さんの魂に出会うつもりで、出かけて行こうと思っている。

2008年7月14日

松山の輝く女神たち

やっぱり、愛媛の女性たちのパワーは凄い。


「保守的だ」と愛媛の人たち自身が口々にいう愛媛県。
たしかに松山市議会では、男女共同参画推進条例の運用をめぐって、
   ・日本の文化と伝統を尊重すること。
   ・ジェンダー学あるいは女性学の学習あるいは研究を奨励しないこと
ほか11項目の請願を昨年12月に採択するなど、
バックラッシュの最前線にある都市ともいえるが、
そんな中だからこそだろうか、
逆に、輝くばかりに生き生きとした女性たちが、上映会をささえていた。


松山では、昨年11月に2週間、地元の映画館で『ひめゆり』を上映。
そのときにお客さんとして偶然に時を共にした女性たち数人と、
数少ない男性陣が中心となって
上映の実行委員会「愛媛ひめゆりの会」を立ち上げて、準備を進めてきた。


こんなケーキを作っては、楽しくお茶を飲み、
夢を膨らませてきた仲間たち。







7月13日の『ひめゆり』上映会は、まず、
愛媛で独学で三線をやってきた名手、嶋本慶さんの演奏で幕開け。
     (嶋本さんは男性。女性たちのパワーあふれるお願いに、
      ノーギャラでも出演Noとは言えなかったのでしょう・・・)
映画『ひめゆり』の上映につづいて、
ポン川村さん司会によるトーク。
     (あれ、よく考えてみると、ポンさんも男性・・・)
会場からさまざまな質問が飛び交い、とても良いトークとなった。
     (終了後、ポンさんは女性たちから「あんた、しゃべりすぎや」と鋭い攻撃を受けていた!
      ひやぁ、愛媛の女性たちは強い!!!)
最後は、実行委員長のタマさんの挨拶。
     (数少ない男性陣3人はフル出場!
      女神さまたちの掌に乗せられた男たち・・・・)


今回の上映会でとても良かったのは、
1.大学生たちがたくさん観に来てくれたこと
     実行委員会のみんなが走り回り、大学生協にもチケットを売ってもらえたという。
2.親子連れの観客も目立ったこと
     女神たちは太っ腹、高校生以下は無料にしてしまった。
3.学校の先生たちもたくさん観に来てくれたこと
     もちろん子どもたちにも『ひめゆり』を観てもらいたいけれど、
     子どもに伝える役割の先生に、まずは観てもらいたかった。
     嬉しいことに、夏休み中に、伊予の先生たち同士の勉強の場で
     『ひめゆり』を観て、研究をしてくれるという。


上映会が終了した後、松山の目抜き通り、一番町の一角にあるカフェ、
CAFE 2 COEUR(カフェ・ドゥークール)
20代、30代の女性たち20人ほど集まった。
「2番目に落ち着ける場所」という名のカフェ。
さんぴん茶を飲み、サーターアンダギーを食べながら、
ドキュメンタリー映画『ひめゆり』を観て感じたことを語り合おうという「お茶会」だった。
戦争や平和のことだけでなく、命のこと、子どもたちのことへと話はふくらんだ。
肩肘張って激論するのではなく、お茶の中のおしゃべりでこんなことを静かに語れる。
なんて素敵なことなのだろう!

何か特別な活動をすることだけが平和運動じゃない。
静かに日常を噛みしめて、日々の生活のなかの優しい一瞬を守っていくこと、
小さな幸せがいつまでも続いて欲しいと願うこと。
やってはいけないことにNoと言えること・・・・。
生活の折目を、ぼんやりでいいから意識して、
しっかり生きることって、すごい平和活動だと思う。


夜、松山の沖縄料理屋「めんそーれ」で、交流会。
これまでの実行委員のメンバーに、
「来年に向けて私も実行委員に加わりたい」 
という飛び入りの女性たちも一緒になって、
嶋ちゃんの三線にあわせてカチャーシー。


     私たちは、こんな映画を見たあとには、
     いっぱい笑って、人生を楽しんで、
     唄いながら帰らなければならない。(ズンコさん)


の精神で、女神たち(と数少ない男神たち)の饗宴は終わった。


愛媛ひめゆりの会の皆さんの言葉。


     この映画は、10人が観れば、そのうち8人が2人に伝えてくれる。
     つまり16人になる。
     16人が見れば、そのうち13人が2人に伝えてくれる。
     つまり26人になる。
     こう考えていくと、愛媛でのひめゆりの上映は
     毎年、毎年、永遠につづく・・・・。


今朝の松山空港。
女神たちの長、テンさんが、お土産にジャコ天を買ってくれ
「また来年ね!!」とおおらかに笑った。
ポン川村さんは、女神たち13人を引き連れ、
来週、ひめゆり平和記念資料館に行くという。


資料館にも繋がっていってくれる・・・。
そのことが、とってもありがたいし、嬉しい。

2008年7月17日

いよいよ出雲へ

あさって19日は、出雲へ。
松江での上映会だ。


僕にとって、松江というと、
すぐにラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が思い浮かぶ。
1890年に来日したアイルランド系ギリシア人ハーンは、松江の中学英語教師として赴任、
そこで小泉節子と結婚。
後に、東大の英語教師などを経ながら、数々の文芸作品を残した。
彼が、妻節子から聞いた話をもとに書いた「怪談Kwaidan」は
僕の大好きな小説のひとつで、
3、4年に一度は本箱から「怪談」文庫本を取り出して読んでいる。


出雲空港には、若いNKさんが迎えに来てくれるという。
NKさんは、「100年後に贈りたい」プロジェクトで、
こんな作品を送ってきてくれた。
       
      「海の見える保育園です。
       朝。お母さんと離れるのが嫌で泣いてくる子、
       ねむくてしぶしぶ来る子、いろいろにぎやかな朝です。
       『さんぽにいこう』 『虫さがしするか』 『くわの実食べてよ』
       そんな朝の呼びかけで、みんなの表情がいきいきとかわります。
       こんな毎日がこの子達が大きくなってもつづきますように。」


松江の上映会は、東京で『ひめゆり』を観たNKさんが、
まわりの友人たちに相談、
その一人、BTさんが広島・横川シネマに「どれどれ」と観に来てくれて、
そこから「上映しよう」と輪を広げてきた。


さあ、どんな上映会になるのだろう。

2008年7月21日

松江: 街の会話として語れるには・・・

松江から、そのまま、山形の山村に来ているため
すぐに報告・更新ができなかった。

  ~  ◆  ~  ◇  ~  ◆  ~  ◇  ~  ◆  ~  ◇  ~  ◆  ~  ◇

神の国とはよく言ったものだ。
出雲空港に到着した瞬間、そう思った。


八雲たつような、低く立ち込めた雨雲の間から
太陽光が差し込み、
宍道湖の水面に照らされて
空気全体に光あふれていた。


僕は10月「神無月」(神が出雲に行ってしまって不在の月)の東京生まれ。
神のいない時にこっそりと生まれたという
何か妙にやましい思いが子どもの頃からあったので、
僕が生まれたときに神さまたちが集まっていたという
出雲の国には、ちょっと不思議な憧れがあった。


  ~  ◆  ~  ◇  ~  ◆  ~  ◇  ~  ◆  ~  ◇  ~  ◆  ~  ◇

出雲の映画の上映は、「結い方式」だと思った。
誰かが「この映画をやりたい」と思ったとする。
「今度私はこの映画の上映会をやりたい、
 あなたのやりたい映画のときに手伝うから、
 私の上映会も手伝ってね!」
自分がこの地で多くの人と共有したいと思った映画を
言いだしっぺになった人が
助け合いながら、上映していく。
そんな意味での「結い方式」だと思った。


すぐれた発起人(言い出しっぺ)たちが
たくさんいる土地。


『ひめゆり』をめぐっては、こんな風に始まったという。
CoccoファンのNaokoさんが東京で『ひめゆり』を観て
地元の松江で上映したいと思った。
そこで、松江でさまざまな文化活動をしている友人、
高嶋敏展さんに相談した。
高嶋さんは、広島・横川シネマで『ひめゆり』を自分の目で観て
「上映をやりたい」と思った。
高嶋さんは、このとき、「言いだしっぺ」になる腹を固めた。


ちょうど同じ頃、高校で美術の先生をしているKさんが
羽田澄子監督の『終わり良ければすべて良し』を上映したいと
思って動き始めていた。
Kさんは、その後、大阪で『ひめゆり』を観て
『ひめゆり』もやりたい気持ちがあったが、
まずは自分が上映を決めた『終わり・・・』を成功させなければならない。
誰か『ひめゆり』をやりたいという人物が現れないかと
ひそかに探していたところ、
高嶋さんから声をかけられた。
   (高嶋)「Kさんのやりたい映画を手伝うから、
        僕のやりたい映画も手伝ってください」
   (K)  「何をやりたいの?」
   (高嶋)「『ひめゆり』です」
Kさんは、こんとき、
「鴨がネギを下げて飛んできたとはこのことだ」と
内心小躍りしたという。
   (K) 「はい、喜んで手伝います」
こうして、『ひめゆり』の上映に向けて実行委員の核が出来た。


実行委員の中には、
『六ヶ所村ラプソディー』を皆に声をかけて実現させた人などが、
「結い」=相互扶助の精神のように結集。


映画の専門家でも何でもない人たちが
こうして互いに映画という媒体を通して助け合い、
文化を共有していこうとする姿に
僕はものすごく感動した。


こうした「映画の結い」活動を支えるのが
松江キネマ倶楽部だった。
キネマ倶楽部は、かつては会員制で、
「良質だが地方の映画館ではやらない作品」を上映する
活動を行っていた。
しかし昨今、シネコンが松江にも進出、
会員制を維持しながら定期的に映画上映をするのではない
別のありようを模索した。
そして現在、「映画上映をやりたいという人をサポートする」
という役割を進んで引き受けることに至ったという。
松江キネマ倶楽部は、上映についてのさまざまなノウハウを持っている。
「上映会をやりたい」という言いだしっぺたちを
たとえば行政にかけあって会場経費を安くしてもらうなど
現実的な面でサポートするのだ。


松江キネマ倶楽部の代表、Yさんは
  「個人的にはもっと劇映画をやりたいのだけれど
   皆さんが“やりたい”と言ってくる作品は
   ほとんどドキュメンタリーなんで・・・」
と苦笑していた。
縁の下の力持ちに徹する人たちがいる、
これもすごいことだと思った。


大事だと思ったことを決して独り占めしない、
みんなに伝えることで地域を豊かにするんだ、
そして自分自身ももっと豊かにするんだ・・・。
そんなスピリットが息づいていた。


高嶋さんの名言。
    「僕が広い会場と集客にこだわったのは、
     人口の少ない地域で大勢が
     まとまった体験をすることは
     街の共通認識を生むことです。
     1000人くらいがまとまって見てくれれば
     街の会話として『ひめゆり』は語られると思います。
     東京では考えられない事ですが、
     松江なら十分にあり得ることです。
     島根、鳥取の人口と松江市の人口密度を
     調べてみればすぐわかります!」


明治初期、ラフカディオ・ハーンという異形の外人を受け入れた町、
松江の文化の底力を感じた。


素敵なところだなぁ。


こんどあらためて、ゆっくりと訪ねたいと思いながら、
別件で取材をするため、山形に向けて、寝台列車に乗った。





*会場には、昭和10~20年の松江周辺の様子を映した写真や
 当時松江で製造されていた手榴弾の信管を入れた箱などを展示していた。
 沖縄を遠い国として捉えるのではなく、
 自分たちの町とつながっているんだという眼差しが
 すばらしかった。

2008年7月22日

山形: あなたの後ろの人脈へ・・・

名山として知られる月山のふもとの村から
電話をしたのは午前10時25分。


    「もしもし?柴田です。分かりますか?」


相手は、山形での上映を立ち上げ、実行に移してくれた
松井愛さん。
上映でお世話になりながら、これまでお会いする機会がなかった。


月山のふもとからバスを乗り継ぎ、
山形駅に着いたのは午後12時半。
松井さんは、すでにこの間に、
山形フォーラム(映画館)を経営する長澤夫妻、
山形映画祭実行委員会の高橋事務局長、
そして、上映を主催したフリースペース、「ぷらっとほーむ」のメンバーたちに
連絡を入れてくれていた。
はるか彼方だった山形の町が、
急に近い場所になっていた。

  ~  ◆  ~  ◇  ~  ◆  ~  ◇  ~  ◆  ~  ◇  ~  ◆  ~  ◇

32歳、自ら不登校の経験があるという松井さんは、
専門学校の教員をしていたが、
子どもや若者のためのもっと間口の広い居場所を作りたいと
6年前、フリースペース「ぷらっとほーむ」を作った。
共同代表をつとめる滝口さんも、小学校教員を辞め、
「ぷらっとほーむ」を一緒に始めた。


松井さんは、若者や子どもたちと実際に接して、
ともに悩み、ともに成長をする、「ぷらっとほーむ」のお母さん役。
一方、滝口さんは、「ぷらっとほーむ」の頭脳。
今は大学院で社会学も勉強をしながら、「ぷらっとほーむ」の活動を
少し離れたところから見つめ、社会的な意味づけを模索し、提言する。


そんな二人が共同で営む
「ぷらっとほーむ」が、全力を挙げてネットワークをたぐり寄せ、
上映した『ひめゆり』。
松井さんは、直接つながっている知人に次のように言ったという。


   「私はあなたには“ぜひ観てください”と言える。
    だけど、あなたの後ろの人脈には、私からは伝えられない。
    あなたから、あなたの後ろにいる人に
    バトンをつないでほしい。
    たった一人でもいいから。」

   
この言葉は、松井さんの人生の師匠である
山形映画祭の高橋事務局長からの教えだとか。
高橋さんは、上映活動をする松井さんに、
「俺ならもっとここまでやる」と、厳しくも的確なアドバイスをした。

  ~  ◆  ~  ◇  ~  ◆  ~  ◇  ~  ◆  ~  ◇  ~  ◆  ~  ◇


「ぷらっとほーむ」の頭脳、滝口さんが書いた報告文から。

    ■四月に始動した企画、ドキュメンタリー映画『ひめゆり』の
     自主上映会(6月21日~27日、会場:山形フォーラム)が、
     このほど、大盛況のうちに幕を下ろした。
     さまざまな人びとのご協力のおかげで、当初の目標を大幅に上回る、
     計727名の人びとにご入場をいただき、観てもらうことができた。
     事業評価にあたって観客動員数というのはもちろん大事な基準だが、
     何より、自分たちの「思い」にこれだけの数の人たちが共鳴してくれたのだ
     という事実が、ただただ嬉しい。
    ■ところで、1週間にわたる上映会が始まって発覚した、
     ある興味深いエピソードがある。
     上映初日、舞台挨拶のために、『ひめゆり』を製作した
     プロダクション・エイシアの富士さんに来ていただいた。
     もともと彼自身がいち観客として映画館でこの作品に触れ、
     そこで受け取った「思い」を、さらに別の誰かに手渡そうと思って動き始め、
     気がついたら製作会社スタッフとして
     公式に映画の広報に携わることになっていたのだという。
     山形へは、彼がチラシを届けたとのこと。
          (柴田注)昨年の山形映画祭のときに富士さんが
                『ひめゆり』のチラシを運んで置いていた。
    ■そんなふうに届いた『ひめゆり』チラシの一枚を、
     「ぷらほ」スタッフの松井が偶然手にする。
     「なぜかはわからないけど、絶対に観なきゃいけない気がする」。
     そんな言葉とともに、「ぷらほ」メンバーに差し出されたチラシ。
     「Coccoのメッセージだ」「面白そうだね」「わたしも観てみたいな」・・・。
     感染していく何か。
     だが、山形の映画館での上映予定はないという。
     あきらめるか。
     いや、どうしても観たい。
     じゃあどうする? 
     自分たちで上映しちゃえばいいじゃん!
    ■要約すると、以上のような道すじを経て、
     「ぷらほ」主催の上映企画が始動した。
     「忘れたいこと」を話してくれたおばあさんたちの「思い」が、
     いち観客であった富士さんを動かし、
     彼が撒いたチラシが松井にとどき、
     松井の「思い」が「ぷらほ」のメンバーに伝わり、
     今度はそれが山形の人びとに届いていく。
     観客の人びとの一部は、作品を観た人から口コミで評判を聞いて
     足を運んだとのこと。
     さらには、上山や天童でも上映会を開きたい、との声まで聞こえてきた。
    ■ここにあるのは、「思い」のリレーだ。
     何としてでも誰かに伝えたい「思い」。
     それんな「思い」を抱いてしまったとき、わたしたちはつい
     「どうせ誰にも届くはずない、だから黙っていよう」
     などと予防線をはり、せっかく芽吹いた「思い」を枯らせてしまう。
     でもそれは違う。
     この上映会が一例だ。
     「思い」は伝わる。伝えたいことがあれば、吐き出してしまえばいい。
     空気なんか読まなくていい。
     そんなふうにして、私たちはこの社会をつくり変えていくのだ。

  ~  ◆  ~  ◇  ~  ◆  ~  ◇  ~  ◆  ~  ◇  ~  ◆  ~  ◇

山形の「ぷらっとほーむ」の面々は
上映終了後も、沖縄にまつわる勉強会を開きつづけている。
松井さんは、8月には、なんと新婚旅行を兼ねて
ひめゆり平和祈念資料館、そして荒崎海岸を
訪れることにしたという。
そう、この映画の根っこは、ひめゆり資料館なのだから。
そこまで行かないと、松井さん自身の区切りがつかないのだという。
     (もっとも、ご主人に配慮し、一日はちゅら海水族館にも行くとか・・・・。
      どえらい新婚旅行になってしまい、ご主人、申し訳ありません・・・・。
      僕からもお詫び申し上げます。)


花笠まつりの踊りの練習にも熱中しているという
「ぷらっとほーむ」の若い人たちの
さわやかな出で立ちが印象的だった。
彼らが、これからの山形を変革していくのだと思うと
とても楽しみだ。

2008年7月25日

明日から広島、そして香川へ

久しぶりの広島、そして初めての香川へ。


広島では、
横川シネマ
一回目上映・午前10時40分~ 上映後にあいさつ
午後2時~カフェチアス(0822955799)にて、交流会(おしゃべり会)
二回目上映・午後6時40分~上映後に、あいさつ
午後9時すぎ~甑(こしき0822920022)にて、またまた交流会。
誰でも参加自由、大歓迎です。

2008年7月27日

高松:女の38度線  

初めて通る瀬戸大橋。


高松には当初は行かない予定で、
僕の体調を心配する富士さんがお断りの連絡をしてくれていたが


    「超お忙しいとは思いますが、ぜひご来場をお願い申し上げます。
     厚く熱く暑苦しいくらいお願い申し上げます。」


こんなお願いをされてしまったら、行かないわけには行くまいと
スケジュールを再調整。
蒸し風呂の中にいるような暑さの中を、
広島からJRで高松へと向かった。


    (ただし、秋以降は、僕が上映会に行くスケジュールを取るのは
     本当に本当に難しいので、ご了承ください)


高松の上映会を主催したのは、
BPW(Business and Professional Women)という
働く女性のための国際組織の、香川県支部の方々。
40代~50代を中心とする、さまざまな業種の女性たち。
中心メンバーは、高松高校卒業の50代のOBたち。


    「『女の38度線』と私たちは言っています。
     20代の女性は、社会になかなか目を向ける人がいない。
     しかし子どもを生み、仕事でも責任を持つようになる
     30代後半になると、
     社会に目を向ける女性と、そうでない女性とが
     明快に分かれてきます」


そう、高松の上映は、『女の38度線』を越えて
社会に目を向けるようになった女性たちの手によるものだった。


この上映会では、1回目と2回目の上映の間に、
小学生2人を交えての朗読会を企画していた。
BPWのメンバーでもある女優、広瀬多加代さんが指導して
広島の原爆被爆者の手記や、原爆関連の童話の朗読を行った。
とても心に響く朗読だった。


詳しくは、自由席

2008年7月30日

ドキュメンタリー映画 『アメリカばんざい』

こんな映画を作りたかった、
それをやってくれたドキュメンタリー映画
アメリカばんざい crazy as usual
がポレポレ東中野で上映中。
7月23日に完成したばかりのこの映画の
藤本監督トークの対談相手として、昨日ポレポレに行ってきた。


アメリカの若い兵隊たちの姿を追ったドキュメンタリー。


兵隊ってどうやって作られるの?
戦場を経験した兵隊たちは、心の傷を抱えながら
退役後はどうやって生きているの?
沖縄の基地の、あのフェンスの向こう側にいる人たちの
世界ってどうなっているの?


北海道で暮らす映画監督・藤本幸久さんとフリージャーナリスト影山あさ子さんが、
500人の人たちの寄付金によって作り上げた。
寄付を寄せてくれた6割が、北海道の人だという。
「貧しい人ほど、きちんと支えてくれる。
 お金のある人は知らんふり」
という藤本監督。


沖縄戦では、沖縄県民に次いで、北海道の人たちが
犠牲になった。
沖縄戦の死者の20人に1人は北海道出身の兵隊。
死ぬと分かっていた戦場=沖縄に、国家は、
満州にいた北海道・東北出身の兵士たちを大量に送り込んだ。
貧しい人、辺境にいる人ほど、結局は国家に捨てられるのだ。
北海道の底力が生み出した、
アメリカ兵士たちの実像を追ったドキュメンタリーだ。


貧富の格差を作り、貧しい人たちを軍に送り込むシステム。
アメリカのこの現状が、近未来の日本の姿とならないように
僕たちは何ができるのだろうか。

2008年7月31日

埼玉: 近田洋一さん最後の仕事

近田洋一さん、
あなたの優しく大らかな魂が
会場の隅々にまで漂っている、
そんな、きょうの上映会でした。


あなたとの出会いは、昨年4月にさかのぼります。


『ひめゆり』マスコミ試写会のとき
緊張して声の出ない僕にかわって、
すくっと立ち上がり、演説してくれた近田さん。
   「僕は長いこと沖縄で新聞記者をしていたが、
    ひめゆりの方々の話は、いくら聞こうとしても聞けなかった。
    それがこうしてドキュメンタリー映画として観れたこと、
    ひめゆりの皆さんがこれだけ語ってくれたことに驚いた。
    マスコミの皆さん、ぜひ、この映画を応援してください」
それがあなたとの初めての出会いでした。
後で知ったことですが、あたなは、
沖縄本土復帰後に琉球新報の記者をやめ、
埼玉新聞の編集委員を務めていました。
あの時のあなたの演説の力もあって、
多くの記者やライターたちが
『ひめゆり』を取り上げてくれたのだと思います。


それ以来ずっと、あなたを父親のように慕って来ました。
小さな出来事でも、お伝えするとすぐに
あなたは励ましのお手紙をくださいました。


「『ひめゆり』を埼玉の地に広めたい」、
近田さんが、そんな思いで提案して実現した
きょうの埼玉上映会(さいたま生協OB主催)。
1回目(午前)は 544人、
2回目(午後)は 468人、
3回目(夜)は 265人。
前売券が定員以上に売れ
前日に一回上映を追加、
合計1597人もの方々が観てくださいました。
会場には、若い人もたくさんでした。


近田さんが突然、旅立ってしまった先月、
僕もカミさんも、あまりのショックで呆然としてしまい
しばらく何もできませんでした。
いつも隣にいて声をかけてくれるような存在だった近田さん、
辺野古のことを気にかけて僕たちにいつも情報をくれていた近田さん。
あなたの訃報に接し、大きな支えがなくなってしまったような思いでした。


「近田洋一最後の仕事だ」
あなたが親しくしていた方々が、
この上映会を見事に最後までやり遂げてくださいました。
沖縄からは、かつて埼玉に暮らしていたこともある
与那覇百子さんもかけつけました。
百子さんと近田さんは、家族ぐるみのお付き合いでしたね。


きょう、近田さんのご長男、お嬢さんにも
初めてお目にかかりました。
ご長男は、近田さんそっくりの、
大柄で、誠実で、夢を追うタイプ。
お嬢さんは、近田さん奥様似の沖縄美女。
「Coccoさんによろしく」と言っていたけど、
Coccoファンなんですね。


近田さんが蒔いてくれた
埼玉での平和への祈りの種、
これからもっともっと育って行きますように。


      いつも心の中であなたのことを
      慕っている 不肖の弟子より

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