『ひめゆり』は沖縄へ修学旅行に行く前、行った後に学習の一貫として
鑑賞することが多いです。これから修学旅行が増えるに従って
上映会も各地の学校で行われていきます。
一昨日送られてきた高校生の感想を紹介します。
戦争やジェノサイドの恐ろしさというのは、
人が大量に殺されるということではなく、
そこには個人の死が存在しないということではないかと思います。
たくさんの人が亡くなった。「約」何万人。
そこに個人は存在しません。「ひめゆり」に登場した資料館などは、
できるかぎりの個人の復元、自分が愛した個人を、
戦争を構成する死の中の一部から取り戻し、
再び生き返らせ、きちんと埋葬するために作ったのだと思います。
死を再認識するとは、もう一度記憶のなかで死ぬわけですから、
精神的にはそれはもう辛いものだと思います。
私は死を知らない。知らないものは、怖い。
だから知ろうとする、必死に。(みなは違うの?)
人は未来ばかりを追って、過去を清算しないまま来てしまった。
それらのつけが今、まわってきている。
考えることをやめてはいけない。
それは確実なる死だ。人間らしく、
幸せに生きるとは考えることなしにはありえない。
戦争というのもまたひとつのつけだったのじゃないだろうか。
人は考えることをやめ、ひとつのことを妄信したゆえに、
人間らしく死ねなかった。
考えることは疲れるし、めんどうだ。
それを他人にあずけ、楽をした結果が戦争だったのではないだろうか。
「ひめゆり」を観た後、「感動して泣けた」と騒いでいる人が多かったが、
あの映画は同情されるために作られたのではないのでは?
未来は見えない、分からない。
いつ何が起こるか。明日には死ぬかも、狂うかもしれない。
人は過去からしか学べない。過去を学んだ上で、予想して、
考えて、最悪の事態を逃れるために。
「ひめゆり」を観て、私はただただ怖かった。
悲劇の再演は近い。それが戦争なのか、そうでないのかはわからないけれど。
人が人でなくなる日は、もしかすると明日かもしれない。
(2-4女子)