メイン

ひめゆりの風 Coccoの風 アーカイブ

2006年11月 8日

ひめゆりの風 Coccoの風

11月6日 毎日新聞のコラム「想い事。」で
Coccoさんがこの映画のことを書いてくれて以後、
少しずつ、映画「ひめゆり」を観る会へ
登録してくれる人が増えて来ている。
特に、20代の若い人たちから、
自分自身の思いを込めた文章も一緒に寄せられてくることもある。
みんな、すごいいい感性しているなあと、思わずうなってしまう。
そして、つい嬉しくなって、
他の仕事を中断し、自分で返事を書いてしまったりする。
(たいしたこと書けてはいないのですが・・・)


大阪の TI さんが、こんなメッセージを寄せてくれた。

 「忘れてはいけない忘れたいこと、を、語り継ぐ勇気に感動です。
  でも、8月に(ひめゆり資料館を)訪れたとき、
  私の元へ歩み寄ろうとしてきてくれたおばぁから、
  避けるように逃げてしまいました。
  今にも泣きそうになっていた私は、
  泣いてしまうのが恥ずかしかった、という理由からです。
  今ものすごく後悔しています。
  ごめんなさい。」

この気持ち、とってもよく分かる。
僕も、20代の頃、重すぎて、受け止められないのではないかと、
戦争というテーマから逃げていた。
沖縄に暮らしていたけど、
ひめゆり資料館を積極的に訪れることもなかった。

僕は29歳のとき、縁あってこの「ひめゆり」の記録を始めた。
それができたのは、
その数年前に、人生の上での大きな大きな挫折をしてしまい、
勤めていたNHKも辞めてしまい、
自分にできることを精一杯やるしかない、と思い定めていたから。
書くのも苦手、話すのも苦手な自分には、
聞くことしかできない、
伝えたいけど受け止める人のいない人の声を
しっかり聞き、記録する、
それが自分の役割だと思い定めていたからでした。
あの大失敗がなかったら、
今ごろ僕は何をしていたのだろう・・・。
少なくとも、この映画も生まれていなかった。


25歳のTさんが書いて来てくれた、
「私達は、生の証言を聞ける最後の世代だと感じています。」

確かにそうだね!!
今なら、この映画を観た上で、(いや観なくても)
生身のおばちゃんたちの姿に接することができる。
おばちゃんたちの話を聞いたり、
自分の思いをぶつけることもできる。

そういう形で
おばちゃんたちの命を
若いみんなが受け継いでくれたら、
どんなに素敵だろう。


--------------------------------------------------------------------------

映画「ひめゆり」を観る会への登録はこちらから。
皆さんからの声援が、上映の機会の拡大につながります。


〔関連ページ〕
○ 「ひめゆり」長編ドキュメンタリー映画 ホームページ



2006年11月 9日

ひめゆりの風 Coccoの風(2)

きょうも、多くのメッセージが届いている。
ひとつひとつ読んでいる。
つい時間がたってしまって、本来業務に手がつかない。
でも、Coccoさんが蒔いてくれた種を少しでも大切にしたいので
寄せられたメールには、必ず目を通している。

多くの人は、
沖縄に行ったことがないし、
当然のことながら、
ひめゆり平和祈念資料館に行ったこともない。
でも、想像力を羽ばたかせ、
しっかり考えているのに驚く。

これは大阪のMKさんからのお便り。

  「私は、沖縄に訪れたこともないのですが
   いずれ、沖縄へ行き、ひめゆりの塔に行きたいと
   思っています。
   最近は、憲法改正などの話もあり
   日本を含め、世界中が(既に争いの中にいる国もたくさんありますが)
   戦争という悲劇にまた少しずつ
   近づいていくのではないかという危惧を持っています。」


ありがとう。
MKさんは、今の時代と戦前とを重ね合わせて考えているんだね。
ひめゆりのおばちゃんたちも、
戦争が始まる直前まで
まさか自分のいる島が戦場になるとは
思ってもいなかったんだ。
気が付いたら、戦場のまっただ中に動員されていた。
戦前で貧しかったけど、今とまったく変わらない
普通の学生たちだったんだよ。


神奈川県のSKさん(早紀さん)からのメール。

   「12月には沖縄へ旅行へ行って来ます。
    ひめゆりの塔に行って、またちゃんと大人になったわたしの目で
    きちんとひめゆりの皆さんの写真を観てきたいと思います。
    沖縄の人でなくても、もっと若い子たちや、戦争を知らないわたし達
    世代が本当に興味をもってくれれば、現実を知ってくれればいいなと
    思います。わたし自身ももっと知らなくてはならない。
    忘れてはならない。風化させてはならないと思いました。」

ありがとう。
早紀さんは高校時代に沖縄に行って、ひめゆりのことも勉強した、
この冬、数年ぶりに訪れてみるのだ、という。
おばちゃんたちの話を聞くとき、
あせらないでね。
資料館で証言をするために立っているおばちゃんたちの中には
いまだに心に傷があって、
あまり上手に話ができない人もいる。
話は苦手だけど、だけど何とか若い人に伝えたいと
必死で立っている。
ゆっくり、ゆっくり聞いてみてくださいね。


広島県のTNさんは、わざわざ広島市内の映画館に
「ひめゆりという映画があるよ」と電話してくれたという。

  「わたしはただのこっこファンの、平和を求めるおかあちゃんですが、
   広島で「ひめゆり」に会える日を楽しみにしております。」

ありがとうございます!!
その後、僕らからも、広島の劇場に案内を送りました。


 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・


ところで、なぜ事務局が、「観る会に登録してください」とお願いしているかというと、
僕らには劇場公開をした実績がない、いわば新人なので、
劇場主さんにとっては、「この映画、人を集めることができるのか」と
心配になってしまう。
不安だから、上映期間は短かく、上映時間もマイナーに設定されてしまう。
いま「ポレポレ東中野で公開」と書いているけど、
現段階の打合せでは、朝一回きりの、いわゆる「モーニングショウ」ということで
了解をいただいている。

僕のような朝寝坊さんにとっては、
モーニングショウに行くのはたいへん。
僕がお客さんだと考えたら、これではなかなか行けない。
何とか、昼も夜も上映してもらいたい。
少しでも長い期間、上映してほしい。
そのためには、劇場主さんに
「こんなに映画を待っている人がいるんです」
と言いたい。

意外に思うかもしれないけど、
 「いい映画」=「上映される」
というわけではないし、
 「いい映画」=「多くの人がみてくれる」
ではない。

宣伝にたっぷりお金をかけられる大きな劇映画と違って
多くのドキュメンタリー映画は、
たとえ名作でも、どんどん埋もれて行ってしまう。
この映画も、ひっそりと朝だけ上映されて終わりというようにならないよう、
埋もれてしまわないようにと
皆さんからの応援をお願いしているのです。


--------------------------------------------------------------------------

映画「ひめゆり」を観る会への登録はこちらから。
皆さんからの声援が、上映の機会の拡大につながります。(事務局)


〔関連ページ〕
○ 「ひめゆり」長編ドキュメンタリー映画 ホームページ



2006年11月10日

ひめゆりの風 Coccoの風(3)

皆さんから寄せられるメール。
Coccoの風がきょうも吹いている。
風速1メートルには満たないけど、さわやかな秋のそよ風だ。

山口県のYSさん。

   「誰かが美化した映画ではなく、読みやすく整えられた小説ではなく、
   事実を知りたい。」

ありがとう。
YSさんの希望には答えられると思う、・・・たぶん。

それと、ひめゆりであったこと、沖縄であったことと同じことが、
今、イラク、チェチェン、アフガニスタンで起こっていることも忘れないで。



京都市、16歳のKKさん。
(すみません、名前の読み方よくわからない。これまでメールいただいた中で最年少です)

    「何も知らない僕たちは、同じ過ちを繰り返してしまうかもしれない。
    いつになっても、ひめゆりが観れることを楽しみにしています。」

「いつになっても・・・」、なるほどなぁ。
そうだね、人間ってすぐに過ちを犯してしまうものね。
そんなとき、何度も何度も、また繰り返し学べばいいんだね。
とっても前向きな姿勢に感動しました。



北海道小樽市のAKさん。

   「10月、沖縄へ行きました。
    大好きな沖縄。
    もう何度も何度も訪れている沖縄。
    でも、どうしても避けていた場所があります。
    それがひめゆりの塔でした。
    初めて沖縄へ行った時に、
    あまりにもあの場所にある思いの、あの場所にいる彼女達の思いの強さに触れ
    割れるのではと思うくらい頭が痛くなり立っていられなくなったから。
    幼い頃から、何かを強く感じると頭がガンガンと痛くなるのですが、あの時は特に。
    それ以来、こわくて行かれなかったのです。
    (今年8月のCoccoの)
    ライブの翌日、ひめゆりの塔へ向かったのですが
    目の前にして足が前へ進まなくなってしまいました。
    勇気が無かった。。。
    沖縄から帰ってから、一人で鶴を折りました。
    小さな折り紙で毎日。
    折り紙を折ることで、自分の中に強さを持ちたかったのです。
    おばぁたちの勇気を、強さを、少しでも繋げるような強さを。
    虹のように祈りがかかるようにと願い折った千羽の鶴達と
    Coccoからもらったきっかけを示す桃色の折り紙の象がひとつになった10月、
    沖縄へ発ちました。
    まっすぐにひめゆりの塔へ。
    10年以上かかって、やっと再び平和祈念資料館へ。
    頭の痛みと止まらない涙…まだまだ弱い私です。
    だけど、もう逃げないよ。
    ゆっくりでも知っていきたいです。
    そして彼女達の言葉を気持ちを忘れずに、繋いで生きたいです。」

ありがとう。
IKさんはとても優しい方なんだと思う。
繊細で、感性が鋭い方なのだろう。

資料館に送られた千羽鶴のかなたに
こんな思いがあったこと、みんなに伝えておきます。

沖縄の人の中にも、ひめゆりの塔の近辺に行くと
魂がそわそわしてしまい行けない、
という人も多い。
僕も、最初の頃はあのあたりに行くのが怖かった。
昔は、ここは激戦地だった、死体がたくさん転がっていたと思うと怖かった。

でも今は、ひめゆりの塔から荒崎海岸の一帯を散歩するのが好きだ。
悲しいことがあった場所だけど、
それを乗り越える自然の力にも満ちているように思う。

資料館の中に、亡くなった生徒たちの遺影が並んでいる部屋があるのを
行ったことがある人は覚えていると思うけど、
この部屋も僕は最初は怖かった。
撮影はお客さんがいなくなってから行うので、
夜この部屋に残っていなければならない。
最初はそれが不安だったけど、
今は、この部屋がとっても安らぎに満ちているように思う。

亡くなった人たちはけっして怒ったり、恨んだりはしていないよ。
今の僕たちが少しでも心豊かに生きることを
祈ってくれていると僕は思っている。


東京都のNKさん。

   「当時を知り「戦争を知らない」世代へ直接語り掛けられる時間は、
    残念なことだけどごく自然なこととして段々と短かくなってきている。
    せっかく受け取ったバトン、託された声なんだから、
    出来るだけたくさんの人に伝わることを、応援しています!」

ありがとう。
その心意気が嬉しいです。
たとえ大きな支援をしてくれなくてもいい。
バトンを受け取るんだ、という気持ちを
持ちつづけてくれればいいのです。



東京都のEKさん。

   「最後まで観ていられるかわかりませんが、
    ぜひとも観てみたい」

ありがとう。その勇気に感謝します。



--------------------------------------------------------------------------

映画「ひめゆり」を観る会への登録はこちらから。
皆さんからの声援が、上映の機会の拡大につながります。(事務局)


〔関連ページ〕
○ 「ひめゆり」長編ドキュメンタリー映画 ホームページ


2006年11月11日

沖縄 ○?×?(紙面接触率)

昨晩はある新聞社の那覇支局にいたA記者と飲んだ。
A記者は、いまは東京社会部にいる。

目から鱗が落ちる話を聞いた。

テレビで視聴率という調査があるでしょう。
新聞にも、それと似て、「紙面接触率」という調査があるという。
ある一定の読者モニターがいて、
どの記事をどのぐらい読んだかを調べるという。

それで、
「沖縄」に関連する記事の紙面接触率、どうなの?
高いか?
低いか?

意外な答えでした。

それについて詳述したいけど、
これからまた会議で出かけて来ます。

つづきは後ほど。。。。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

それと、映画「ひめゆり」を観る会へ登録して下さる方、ありがとうございます。
メッセージを寄せてくださる方、本当にありがとう。
届いています。
読ませていただいています。
また整理して掲載させてください。

では、行ってきます。

2006年11月12日

ひめゆりの風 Coccoの風(4)

Coccoの風、まだ吹いている。
シンポジウムから帰ってきたら、すごく考えさせられるメールが届いていた。
「沖縄」の新聞記事の紙面接触率の話とも関連する
大事なことなので紹介したい。


神奈川県のNSさん(20)からだ。

    「Coccoが言う様に今の沖縄は汚れてきていて、
    それには、少なからず戦時中から続くアメリカと日本の問題が
    絡んでいるように思います。
    アメリカに憧れるあまり、国土の自然や文化を顧みることなく
    開発を進めてきた日本のトップを牛耳る人間の思い上がりも。」

NSさん、すごい洞察力だね!!
そう、17世紀以来の日本と沖縄の関係と
ひめゆりのこととは、
底辺でつながっています。
それは、日本のマスコミの「沖縄」についての扱い方とも重なります。
あまりに深いテーマなので、
いつかきちんと書きたいけど、
付き合ってくれる人、いるかしら?



東京都の23歳のNTさん。

    「『ひめゆり』という言葉は耳にしただけで、
    実際全くと言っていいほど知りませんでした。
    今日Coccoのコラムをたまたま見て、このページに辿り着きました。
    それから沖縄戦についてや、ひめゆりの塔についていろいろ観ました。
    言葉が出ません。
    ただ涙が出そうでした。
    私の頭の中で想像する当時の現場の景色や、
    そこに居た人達の気持ちは、
    当たり前だが確実に実際のものとは比べ物にならないだろう。
    こんな馬鹿な頭で想像するだけで、いろいろな想いが込み上げてきて、
    ただ涙が出そうでした。」

NTさんの世代になると、「ひめゆり」を知らない人が多いのだろうね。
Coccoさんの記事を観て、自分できちんと調べ
自らの頭で考え、想像する。
素晴らしい素質だと思う。
ありがとう。



神奈川県のKOさん。

    「Coccoさんの影響で、沖縄戦の事・ひめゆりの事などの
    歴史に関心を持ちました。
    私達の世代は、過去の悲惨な戦争について、あまりにも無知です。
    とても悲しいけれど、胸が痛くて苦しいけれど、
    もっと、ちゃんと、知る必要があると思う。知らなきゃいけないと思う。
    そして、次の世代へと、過去の事実をさらに伝えていかなきゃいけないと思う。
    同じ過ちを、二度と繰り返さないために。」

KOさんも、Coccoの風をきちんと受け止めた。
KOさんは27歳、人生でもっとも豊かな経験ができ
いろいろ吸収したものを自分なりの形にしていける年齢だ。
良い風を受け、KOさんなりにどんなふうに育んでいくのか
楽しみだ。



茨城県の21歳のYHさんはとても行動力のある人だ。

    「私は今年の夏に始めて沖縄でのCoccoのライブへ行き
    ひめゆりの塔の話を聞きました。
    ライブの次の日には、実際に一人でひめゆりの塔へも行き、
    さまざまな資料・写真・元ひめゆりの方たちのお話と
    ずっと涙が止まりませんでした。」

YHさんは、Cocco「想い事。」の記事が出た日、
すぐにこのメールをくれていた。
Coccoの風の最初のひと吹きだった。
本当に励まされました。
ありがとう。



神奈川県の大学4年生KIさん。

    「去年、今年と夏にひめゆりの塔で
    少しだけ上映されていた証言VTRを拝見しました。
    胸がつまり、非常に深く考えさせられるきっかけとなりました。
    今も日々、戦争のことや沖縄のこと、毎日のように考えています。
    それでも何もできない自分がとても情けないです。
    これからも考え続けていくことしかできませんが、絶対に忘れません。」

資料館の映像も観てくれたんだね。ありがとう。
情けないと思う必要は絶対にない。
考えるだけで素晴らしいと思う。
大学を卒業すると、仕事をしなければならないでしょう。
仕事に振り回され始めると、大事だと思うことを忘れてしまいがち。
会社に合わせるために、自分の魂を削っていく人も多いよ。
今の気持ちを卒業後も忘れない、というだけで
すごいことだと思う。



千葉県の22歳のAMさん。

    「今サイトの方も拝見させて頂いて
     『伝えたい』というスタッフさんの気持ちを感じて
     ますますこの映画を観たいという思いが強くなりました」

そう言っていただけると、やりがいがあります。
ありがとう。



東京都の27歳のMKさん。

     「未来につながる架け橋のような映画になることを祈ってます。」

あなたがそう思ってくれるだけで、
すでに小さな架け橋になっています。
ありがとう。

2006年11月13日

ひめゆりの風 Coccoの風(5) 沖縄にて

日曜日に沖縄に行き、
いま東京に戻った。
今回は駆け足の旅だった。

ひめゆりのおばちゃんたちとの会合があったからだ。

毎週月曜日、ひめゆりでは「資料委員会」といって、
生き残った人たちの学級委員会というか、
「生徒会」のような会合がある。
おばちゃんたち十数人が集まって、
今の悩みや問題、あるいは、
未来への取り組みについて話し合う。

今回はまず、8月のCoccoの沖縄ライブの映像を一緒に観た。

CoccoさんがMCで言っていたように
「おばぁたちは確実にこの場にはいなかった」から。
いや、おばちゃんたちにとっては、
Coccoさんの歌を聴くのも初めてだったりする。
彼女の祖父の真喜志康忠は
沖縄芝居の大スターなので
おばちゃんたち誰もが知っているが、
Coccoさんについては、名前は知っていても、
見たことはないというおばちゃんたちが大部分。

「きれいな人さ」
「沖縄の顔しているね」
歌っているCoccoの姿に、
みなしきりに感心する。

Coccoさんが、ひめゆりについて語り始める。
沖縄の方言を丸出しの語り方に、
おばちゃんたちも大爆笑。

そのうち、Coccoさんの語っていることの深さ、
彼女の心の想いに触れ、
みな涙を流しながら聞き入っていた。


Coccoファンのみんなから
送られてきたメールも
「読み合わせ」をした。

「読み合わせ」というのは
ひめゆりの資料委員会(“生徒会”)の重要なやり方で、
大切な議題や文章について、
単に目を通すのではなく、
きちんと声に出して読んで、
みなで確認をしあう。
声に出すことで、
文章にこめられた意味や想いを
きちんと理解する。
そして全員の理解が同じレベルになるようにする。
戦前の女学校・師範学校からの
良い伝統なのだろう。
みんなからのメッセージを
「すごいねぇ」と言いながら
おばちゃんたちは聞き入っていた。

Coccoさん、みなさん、ありがとう。
おばちゃんたちにとっても、
それを受け継ごうという資料館の若いスタッフにとっても
僕にとっても、
これから何をしていけばいいのか、
その道が少し見えてきた気がする。
おばちゃんたちの命をバトンタッチする
ということの あり方が、
おぼろげながら、目に浮かびつつある。
今はまだ言えないけど、
これから色んなプロジェクトを計画している、
それらの目指す方向性について、
Coccoさんや皆さんから
指し示されているようだ。

ありがとうございます。




2006年11月14日

Coccoの「ありがとう ごめんなさい」 :ひめゆりの風 Coccoの風(6)

Coccoさんの書いた「想い事。」の文章は
次のように締め括られている。


     ありがとうね。
     おばぁたち、ありがとう。
     ごめんなさい。
     ありがとうございます。


とっても感動的なことばだ。
口に出して読むと、
心がしめつけられるような詩だ。

でも、
なぜ「ごめんなさい。」という
一句が入っているのか、
僕はこれまできちんと理解していなかった。
何に対してCoccoさんは「ごめんなさい」と
言っているのだろう?
ずっと疑問だった。



「ありがとう」の意味は文中にも記されている。


     “忘れたいこと”を
     話してくれてありがとう。
     “忘れちゃいけないこと”を
     話してくれてありがとう。


言い換えれば、
「勇気をもって語ってくれてありがとう」
「生きていてくれてありがとう」
「希望を与えてくれてありがとう」

生きる勇気と、共に生きる喜びの賛辞だろう。



では、「ごめんなさい」の意味は?


最初、僕が推測していたのは
「すぐに歌を届けられなくてごめんなさい」
とか
「まだきちんと生きるとはいえないこと
 ごめんなさい」
とか・・・。

うむむ、でも、しっくり来ない。
分かるようで、分からなかった。


なぜCoccoさんは「ごめんなさい」と書いたのだろう。
それが、少し分かるきっかけがあった。


おととい、沖縄に行ったときに、
「神人(カミンチュ)」という
神と対話するおばぁから
大事な言葉をもらってきた。
沖縄には、神人といって
巫女のような、
霊力が高く、神々と対話し
人々の悩みを解決する役割の女性が
たくさんいる。
神の霊が乗り移り
神の霊や祖霊と語り合う。
下北半島のイタコと似ているけど
イタコの多くが盲目だったりするのと違い、
沖縄の神人たちはごく普通の人で、
ごく普通に町や村に暮らしている。
僕は、1988年にNHKに入局し
一ヶ月後、24歳で沖縄放送局に赴任した。
那覇に着いて3日目に
偶然のことからある神人の一家と出会い
以後、家族のようにつきあい、
多くのことを教えてもらっている。
僕にとっては、親のような人だ。


今回の駆け足の旅では
神人のおばぁに直接は会う時間がなかったが
娘さんから、大切な言葉として、
つぎの詩のようなメッセージを聞かされたのだ。


     人間の魂の生きる道は
     「ありがとう」と
     「ごめんなさい」
     この二つしかない。


と。

「神人(カミンチュ)」といっても
本土にいる人にはなかなか正確には
イメージしにくいかもしれない。
神社にいるわけでもなく
寺にいるわけでもなく、
那覇の下町の古臭いアパートに暮らす
ごく普通のおばぁの言葉だ。
学校を出たわけでもなく、
女性ながらも建設現場で土方をしたり、
本土に出稼ぎに行ったりしながら
たくましく生きてきた人の言葉だ。


     人間の魂の生きる道には
     「ありがとう」と
     「ごめんなさい」
     この二つしかない。


これは、あくまで
「魂」のあり方についての教えである。
魂の道はどうあるべきかを語ったものだ。
だが、この神人の言葉をきいて、
Coccoさんの言葉の意味が
少し分かった気がする。


     ありがとうね。
     おばぁたち、ありがとう。
     ごめんなさい。
     ありがとうございます。


Coccoさんは、
何かに対して「ありがとう」と言ったのではなく、
明快な対象があって「ごめんなさい」と
言ったのではなかったのではないか。
これはCoccoさんの魂の叫びなんだ。

     「ありがとう、ありがとう、ごめんなさい、ありがとう」

ひめゆりのおばぁたちに対して
魂をささげた
完全なる愛の表現なのではないだろうか。

そうな風に思えるようになった。


もちろん、Coccoさんの真意は
僕にも分からない。
また、Coccoさんは僕の知っている神人のおばぁと
会ったことがない。
「人間の魂の道には、ありがとうと ごめんなさい 
この二つしかない」という
神人のおばぁの言葉は
沖縄の諺でもない。
沖縄の誰もが知っている慣用句でもない。
神人のおばぁの叫びのようなものである。

でも、どこか、Coccoさんの詩と
沖縄の神人のおばぁの祈りの言葉と
通じあっているように思えてならない。

     「ありがとう、ありがとう、ごめんなさい、ありがとう」



・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・


さらに続けたい。

神人のおばぁは、こうも言った。


     今の世は、
     何に対して「ありがとう」と言い
     何に対して「ごめんなさい」と言うかが
     分からなくなっている。
     だから、おかしくなっている。


魂の道についての言葉だから、
くどいようだが、
日常生活に直接あてはめて考えるのは
ふさわしくないが、
今の世の中の動き、
日本を率いようというリーダーたちの行動を見ると
「ありがとう」「ごめんなさい」の使い方を誤るどころか、
そうした言葉を口にすることさえないように思う。
他者に「謝れ、詫びろ、反省しろ」というばかりで、
自ら「ごめんなさい」と言ったり、
「ありがとう」と心より感謝することが
彼らにあるのだろうか。

マスコミも何か事件が起こるとすぐ告発するばかりで、
「ありがとう」とか「ごめんなさい」という言葉が
テレビやラジオから聴こえることは
少なくなった。


ひるがえって僕らの日常生活を考えてみると
僕らも最近、「ありがとう」や「ごめんなさい」
という言葉を
あまり使わなくなったような気がする。
「すみません」
この一言で済ませてしまうことが多い。
「すみません」は便利な言葉で、
「ありがとう」のシチュエーションにも
「ごめんなさい」のシチュエーションにも
使えてしまう。
簡単に口から出せる言葉だ。
でも、
「ありがとう」というときの喜び、
「ごめんなさい」というときの勇気の感情が
薄れてきているのかもしれない。

そんなことも思った。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

皆さんから送られてきたメッセージを紹介したい。


埼玉県のNIさん(24)からのメッセージ。

     「愛するものが傷つき、悲しむのを見るのは
      とてもつらいです。
      かといって、自分に何かできるとも
      思っていませんでした。
      この映画を観ることは、
      とてもしんどい行為になると思います。
      でも、きっかけを与えられた私たちには、
      それをする義務があると思う。
      目をそらさずにしっかり観て、よく考えて、
      分からずやの大人たちにも説明できるように
      ならなければいけないと思うのです。
      たくさんの人がこの映画に触れることで、
      ひめゆりたちの魂が慰められ、
      Coccoと沖縄の抱える悲しみが和らぐことを
      祈っています。」

ありがとう。
鎮魂まで考えてくれているあなたに
心より感謝します。


佐賀県の高校生REさん(17)からのメッセージ。
 (REさん、ごめんなさい。お返事を書くとき、
  あなたの苗字を書き間違っていたと思う。
  人の名前を間違えるのは最もよくないと
  普段、とくに気をつけているのだけど、
  忙しくバタバタしていました。
  ごめんなさい。)

     「私は、特別Coccoという歌手が
      好きだったのではありませんが、
      Coccoが活動を開始して出したシングル
      『陽の照りながら雨の降る』を聞いて
      吃驚しました。
      Coccoの沖縄に対する想いが
      とても重かったからです。
      私も佐賀に生まれ住んでおり、
      佐賀のことは大好きですが、
      Coccoのように必死に地元を思うことは
      できません。
      そこでもっと沖縄のことを知ってみたい。
      沖縄に触れたい。
      そう思ったのです。
      自分の地元のこともよく知らずに
      何を言うのかと思われるかもしれませんが…。
      それでも、私には一番大切なことのように
      思えるのです。
      他の、どんなことよりも。
      本当は、沖縄に直接出向き、自分の目で
      防空壕や、いろいろなところを見て歩き、
      体で沖縄のことを感じたいと思ったのですが、
      何分学生であり、本分は勉学であるので…。
      機会ができれば必ず出向きたいと思います。」

ありがとう。
沖縄のことと同時に、
自分のふるさと佐賀県のことも
たとえ少しでも考えようとしているところが
素敵だと思った。
(少なくとも考えていない自分に気づいている)


2006年11月17日

娘の死

お世話になっている方の娘さんが亡くなった。

21歳だった。

事故死だった。

父親――僕のようなダメ男の面倒を厭わず
見てくれる優しい人だ――の顔は
泣きつづけたからだろう、
顔中が細波のように皴うっていた。

       ◆     ◇     ◆     ◇

僕には2人の娘がいる。
小学校6年生と1年生だ。
夜遅く家に帰ると、いつももう寝息を立てている。
6畳の畳間、布団を3枚しか敷けないところに
僕とカミさんと2人の娘、都合4人が所狭しと寝る。
あまりに日本的なウサギ小屋のこの風景こそが
海外に長くロケに出たとき
もっとも懐かしく思い出される情景だ。
家族の原風景となっている。
そうした時間を共有して育った娘が、
もし僕より先に黄泉の国へと川を渡ってしまったら、
僕はきっと気が狂ってしまうだろう。
誰よりも取り乱し、
暗い心のトンネルから出て来れなくなってしまうだろう。

それほど、
子の葬式を出すというのは
親にとって辛いことだ。
自分が親の身となってみて
痛みが切々と分かる。


       ◆     ◇     ◆     ◇

ひめゆり学徒でも、
多くの親たちが子を失う悲哀に暮れた。
一家全滅もたくさんあったが、
親は疎開をして生きのびられたのに
子は亡くなってしまったケースも多かった。


ひめゆりの搭の起源も
学徒隊で2人の娘を失った親御さんらが
あたりに散乱する遺骨を拾い
納骨して祀ったことにあった。
1946年4月のことだ。
戦後1年近く経っても
一帯には白骨が散乱し、
身の毛のよだつ状況だったという。


「信子よ 貞子よ いとし子よ
 うちつれだちて
 いずこへゆきし」

  (信子よ、貞子よ、愛しい我が子よ
   2人そろって、どこへ行ってしまったのか)


一人の母親が板切れに書いた詩が、
一木一草も残らぬ荒涼とした大地に立つ
ひめゆりの塔に添えられた。

姉の金城信子さん(19)は、茶目っ気たっぷりの人気者だった。
動物の真似をしたりして
皆を爆笑の渦に巻き込んだりする
ひょうきんな人だった。

妹の貞子さんは「ブーちゃん」の愛称で呼ばれていた。
底抜けに明るく、彼女の周りはいつも笑いが絶えなかった。
ひめゆりの壕の中で
ガス弾攻撃を受ける直前まで
戦場で暗く沈みがちな友達に
クリクリした丸い目で語りかけては
励ましていたという。


これが「ひめゆりの塔」の始まりだった。


       ◆     ◇     ◆     ◇

学徒隊に参加した生徒たちの多くは
1週間もすれば学校に戻れるだろう、
と思っていた。
赤十字の旗の立つ
戦場からはるか離れた病院に行くつもりで、
学校から陸軍病院へと向かった。
知識がなかった。
情報が与えられていなかった。

親の中には
上層部から「この戦争は負け戦だ」という情報を得て
わが子が戦場に行かないよう説得した人もいる。
「16歳になるまでお前を育てたのは、
 戦場で死なすためではない」
と。
しかし娘は、
「お父さん、何を言ってるの。
 そんなこと言ったら『非国民』と呼ばれるよ」
と家出同然で飛び出し、学徒動員に駆けつけた。

多くの親たちは、
娘たち同様に無知だった。
学校と一緒に病院に動員されることが
最も安全だと信じる親が
大部分だった。


       ◆     ◇     ◆     ◇

学校の首脳の中に、
戦場がいかに危険かを熟知していた人物がいる。
沖縄県立第一高等女学校の校長、
GN氏(沖縄師範学校女子部長を兼務)だ。
GNは、日常的に軍司令部に取り入っていた。
軍司令官を接待し、点数稼ぎに勤しんでいた。
そして戦況がどうなるか
事前に予測がついていた。

1945年3月23日、
ひめゆり学徒隊を戦場動員するその夜
GNは演説をした、
「学校の誇りを持って、戦場で働いて欲しい」
と。
生徒たちは希望に燃え陸軍病院へと向かって行った。

一方、校長(部長)のGNはどこへ行ったのか・・・。
彼は、軍総司令部壕へ行った。
最も安全が保障された壕である。
軍との緊密な連絡が必要であるとの理由で
自らは安全地帯にかくまわれた。


       ◆     ◇     ◆     ◇

ところで、GN校長(部長)は
軍や県のトップに気に入られるために、
いかに多くの生徒たちを動員するかを
画策した節がある。

1944年8月、つまり
沖縄戦が始まる7ヶ月前のこと。
八重山や久米島など離島の生徒たちは
夏休みで帰省した。
学級担任や生徒指導の先生からは
「夏休みが終わっても
 学校には戻らなくてもいいよ」
と言われた。
既に沖縄近海には米軍の潜水艦がうようよし
危険な海を渡っての帰省だった。


しかし、夏休みが終わる頃、
離島の生徒たちのもとに
「スグ帰校セヨ」
との電報が学校から届いた。
特に師範学校の生徒には
帰らなければ教員免許を与えないと
半強制的な連絡だった。

帰省させる時には、
「もう学校に戻らなくてもいい」
と、学校ナンバー2の生徒指導の先生が
送り出した。
にもかかわらず、数週間後には
「帰校せよ」
との半強制的な命令を電報で送りつける
事態となった。

GNが、動員する生徒の数を確保するために
決定を下したと考えられている。


なお、沖縄戦で最も安全な軍司令部へ逃げたGNは
死の恐怖にさらされることも ほとんどないまま、
生きのびた。


       ◆     ◇     ◆     ◇

しかし、僕らの映画では、
このエピソードには一切触れていない。

なぜか。

それは、この問題を追及するという態度が
ひめゆりの人たちの心ではないからだ。


 「『怒り』をそのまま相手に返すなよ。
  じっと我慢しなさい。
  それは神さまが返してくれるから。」


ひめゆりのおばちゃんたちの”学級委員長”
ひめゆり資料館の本村つる館長はそう言った。
それは、先輩たちから受け継がれた
教えなのだという。

怒りを怒りで返すと、
憎しみの連鎖が止まらなくなる。
今のパレスチナとイスラエルの紛争のように。
「目には目を」の精神では
憎しみの感情が螺旋階段を駆け上っていく。

   (注) この「神様」は特定の宗教の神様ではなく
       沖縄土着の祖先神であったり、
       大気の中にあふれるように存在している
       目に見えない存在たちである。
       沖縄だけでなく、日本人の中に普通に存在している
       神さまのことである。


       ◆     ◇     ◆     ◇

なお、生徒たちを無理に戦場に動員し
自らは生き残ったGNは
戦後、東京学芸大学の教授となった。
教員を養成する役割を負った国立大学で
戦後も悠々と教鞭を取ったのだった。

日本という国では、
戦前に若い命を蟻のように踏みにじった幹部が
戦後も悠々と生き続ける例が、
教育界だけでなく、政界、官界、財界、医療の分野など
あらゆる現場で見られたことを
事実として肝に銘じておきたい。

亡民の輩ともいうべき、卑劣な大人たちが、
まるで悪霊のように、
今の時代にも各界で
はびこっているように思える。

一人の親として、
しっかりと目を見張りたい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Coccoファンの若い方々からのメールに混じって、
子を持つ親の立場からのメッセージも寄せられている。

岩手県のTTさん(56)からの便り。

    「毎年8月に戦争を題材にした芝居を上演しています。
     今年は、ひめゆり学徒隊の朗読劇『摩文仁の丘』を上演し、
     それに出させてもらいました。
     その際、当時の悲惨さを垣間見て 三人の子供の親として、
     人間として とっても深く考えさせられました。
     何らかの 力になりたいと思っています。」


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今後、サブタイトルから
「ひめゆりの風 Coccoの風」という書き方を省略します。
今から書く全てのブログは
Coccoの風のもとにあることは確かだからです。

Coccoさんのおかげで、
このブログも、多くの若い読者を得ました。
その人たちに向けて、
僕は書いています。

「Coccoの風」と書いていなくても、
「Coccoの風」なんだという前提でお読みください。

また、随時、いただいたメッセージを
紹介させていただきます。
メッセージは送りたいけど掲載はして欲しくない場合は、
「掲載はしないで」と明記していただければ幸いです。

2006年11月18日

試写会

昨晩、東京で初めての試写会を行った。
沖縄以外の地での
初めての上映だった。


一般の皆さまに公開するまでに
ひとつ、ひとつ
大事にしなけれなならない
ステップがある。


まず第一に
これまでお世話になってきた方々に
 観ていただきたかった。
私を育ててくれた方々に
 観ていただきたかった。
映画の完成までの遠い道のりを一緒に歩んでくれた方々に
 観ていただきたかった。
心より「ありがとう」と言いたい方々に
 観ていただきたかった。


ひめゆりの東京の関係者の方々。
戦後沖縄を離れたひめゆり学徒も多い。
NHKの先輩や同期の仲間たちは
陰に陽に僕を励まし支えてくれ、
生活が成り立たなくなりそうなときには
仕事の機会を与えてくれた。
記録映画制作会社の金字塔ともいえる
民族文化映像研究所は、
NHKを飛び出した僕を暖かく迎え
厳しく性根を据えてくれた。
そして目標としてきた映画人たち。
数歩先の道のりを照らしつづけてくれた。


尊敬する女性ドキュメンタリストで、
世界でもトップクラスの作品を作りつづけている
NHK同期の仲間から励ましのメールが届いた。


    「先ほどは、感極まってしまい、ご挨拶もそこそこに失礼をしました。
     帰り道、映画の時空から逃れることができず、
     電車を乗り間違えながら帰途につきました。
     大切な、仕事をなさったと思います。
     先ほど、うまくこの気持ちを表現できませんでしたが、
     この大切な仕事をしてくれてありがとうございます、
     という意味で、ありがとう、と言いました。
     拝見して、ホロコーストを記録した『ショアー』を思いました。
     きっと、この映画も2時間では納まらない、
     長さの可能性をもっていると思います。
     どうか、臆することなく、いつか、
     撮影したすべての映像を使い切るような編集を
     して見せてください。
     きっとその意味がある記録だと思います。
     インタビューにこたえてくれた沖縄の方々に、
     心から御礼をお伝えください。」


ありがとう。
僕がNHKを去っていくときに
あなたが主宰して開いてくれた送別会のこと、
一時たりとも忘れたことはない。
恩返しをするには、作品で答えるしかない。
あなたの言葉のなかには、
同期ゆえの共感があって書いてくださっっている
面もあると思うけど、
素直に受け止めたいです。


昨晩の打ち上げの席で、
プロデューサーやスタッフたちと語り合った。
僕らの映画は、沖縄を知らない人の心にも
きちんと届くんだ。
いま、Coccoファンを中心に
多くの若い人たちからもメールをいただいている。
嬉しい。
これまで経験したことのない喜びだ。
めざそう。
これまでドキュメンタリーとは縁の無かった
若い人たちに一人でも多く観てもらえるように。
そのための方法を考え、努力しよう、と。

いま、ドキュメンタリー映画を観るのは
中高年世代が中心。
だけど、
僕らの映画はそれで終らせたくない。
ひめゆりのおばちゃんたちの命のバトンを
きちんと渡したい。


今後の予定。
こうした「報恩の試写会」ともいえる会を持った後、
来年に入ってからは、
プレス試写といって、
マスコミ向けの試写会を始める。


皆さんのもとに映画を届けるのが
遅くなってしまい、ごめんなさい。
この作品を多くの方々に届けたいと思うなら
あせってはいけない、
そう肝に銘じ、
一歩、一歩、進みたいという
僕たちの気持ちをどうか理解し
待っていて下さい。



2006年11月20日

18歳のSKさんから

さっき、静岡県の高校生から、素敵なメールが届いた。

18歳のSKさんからのメッセージだった。
Coccoさんのページから来たという。


    突然なのですが、先日授業の世界史の時間に
     「第一次世界大戦」のビデオを見ました。
    もちろんフィクションではなく記録だったのですが、
    やたらと戦闘場面や新兵器の紹介が多かったせいもあり、
    私にはどうしても
     『こんなことがあったんだなぁ』
    ぐらいにしか
    感じることができませんでした。

    残念ながらクラスの何人かは眠っていたことからも、
    多くの生徒が 「歴史の通過点」 程にしか
    感じなかったのではないかと思います。

    ビデオを見終わったときに友達とこんなことを話しました。

      「私たちの子どもが第二次世界大戦のことや原子爆弾のことを、
       今私たちが思ったとおりに
       『そういうことがあったのか。
        遠い昔のことだ』
       ぐらいにしか思わなくなる日が来るんじゃないかな。
       そうなったらとても恐いし、
       だからといってどうやって伝えていいのか、それも難しいね…。」

    と。

    私たちの世代には、まだ祖父母に戦争体験者がいます。
    実際にお話を聞くこともできます。
    けれど戦争を体験された方は日本からどんどんいなくなっています。
    残された私たちはどうやって伝えていけばいいのか、
    どんなメッセージを発信すればいいのか、
    私にはまだ分からないことだらけです。


SKさんの指摘はとても大切なものを孕んでいると思う。

戦争体験をしていない人が、
戦争や平和の問題について、
今の時代の人たちと、どのように共有し
次の世代の人たちにどのように伝えていくのか。


Skさんはさらに続けて言う。


    今、戦争を題材にした映画やドラマなどが多くあり、
    8月になると毎年のように放映されますよね。
    私はいつもそれらを目にするたびに、
    何か間違っているんじゃないかとどうしても思わずにはいられません。
    何となく美化されたような人間たち、映画やドラマという構成されたお話。
    感動している自分自身に安心して、
    ただやみくもに戦争反対と言っているようなそんな気がしてならないのです…。
    「泣けたよね~」
    ってそれで本当にいいのかと思ってしまうのです。

    戦闘場面をいくら見ても、それにやはり限界があります。
    遠い国の紛争を見ても
     「またか」
    なんて思ってしまう人は
    日本の社会にいます。
    テレビを通してでさえも感覚が鈍くなってきている私たち。


確かに、遠い国の紛争のことを見て「またか」と思う人は多い。

それだけでなく、
沖縄のことも、基地のことも「またか」と思う人が多い。

11月11日のブログで僕は
新聞記者から教えてもらったこととして
沖縄についての記事が人々にどう読まれているか、
書きかけて放ったらかしになっている。
「紙面接触率」といって、
新聞を購読している人がどの記事を読んだか、
どれぐらい時間をかけて読んだかという
調査があるのだという。

「沖縄」についての記事は
どうなのか?
読者たちがどれぐらい時間をかけて読むのか?

答えは――――「きわめて低い」
という。
その全国紙の読者の大部分は、
見出しに「沖縄」とあると飛ばし読みにする。
沖縄の記事があったことすら気づかない読者が
多いのだという。

「またか・・・」
多くの人々の間に蔓延する「またか」という感覚。

それを払拭するのは並大抵の努力ではできない。
だって、多くのマスコミ人が、深く考えることもなく、
次から次へとニュース・ショーとして
たれ流しつづけているのだから。
感覚が麻痺してしまうのも当然だ。


    だから「ひめゆり」はすごくすごく大事な映画なんだと私は思うのです。
    「人が語り継ぐこと」をまさにやって頂いた「ひめゆり」は
    人対人の対話になるんじゃないかと、
    人と人との、時代と時代との、その橋渡しになるんじゃないかと思います。

    多くの人に、特に若い人に見てもらいたいです!
    と、その前に自身見たいです。。。


SKさんは、僕らのことを励ますことも忘れない。
すごい、大人だ!
いいよぉ、そんなお世辞を言わなくても。まだ観ていないんだから。
観たら、しっかり感想を書いてください。
そして良いと思ったら、友達にたくさんたくさん声をかけてください!



       ◆     ◇     ◆     ◇

SKさんは、小学生の頃、沖縄に家族で旅行をしたことがあるという。
ひめゆりの塔を訪れ、とても衝撃を受けたという。
実は、そんな体験を1週間前に僕にメールで送ってくれた。
僕はひょっとして衝撃が強すぎて悪い影響を与えていないか心配になり
SKさんにメールで尋ねた。
きょうのメッセージはSKさんからの返信だった。


    『沖縄に旅行へ行った、という表現より、
    私はひめゆりの塔へ行った、という表現のほうが当てはまるくらい、
    私にとって衝撃的なのものでした。』
    と、前に送ったと思いますが、
    そのくらい私にとってはすごく大事なことでした。

    自分と何年しか違わない少女達が、どうして…と、
    幼いながらに苦しかったです。

    小学校高学年にも満たない年齢でしたので、
    理屈より先に感情が溢れてしまいました。
    先入観というものがまるでないので、
    直に痛いほどの感情が私を襲ったのです。

    大きくなってからだんだん「事実」というものを知り、
    「考える」こともできるようになった私ですが、
    あのとき感じた痛みはきっとずっと忘れないと思います。

    きっと今の私たちに必要なのは
    そういった「痛み」を感じること
    過ぎ去った時間を共有しあうこと、知ること

    それと現代をリンクさせながら、
    そういった「事実」を伝えていくことなんだと思います。

    実際現代においても戦争は終わっていないですから…。

    もちろん戦争自体無なることがいちばんですが、
    どうして戦争をしなければならなかったのか、
    その「背景」をも理解」しなくてはいけないな、と思っています。

                 (注)アンダーラインは柴田


最初にも書いたけど、
戦争体験をしていない人が、
戦争や平和の問題について、
今の時代の人たちと、どのように共有し
次の世代の人たちにどのように伝えていくのか。

とっても大切なテーマだ。

ひめゆり平和祈念資料館でも、
若いスタッフたちがこのことを真剣に考え始めているし、
模索しながら苦しんでもいる。

戦争を体験した人がまだお元気な間に、
確立していかなければならない
大きな課題だと思う。
その大テーマに、SKさんは高校生なりに
果敢に挑んでいる。

僕自身、SKさんから学ばせてもらった。
ありがとう。


       ◆     ◇     ◆     ◇

SKさんは最後に、自らの体験と決意を語っている。


    今までにひめゆり、原爆ドーム(資料館)、
    アウシュビッツ強制収容所を訪れたことがありますが、
    そのとき感じたことは、ずっと私の中に残っています。
    戦争を思うたびに戦争の恐ろしさ、無意味さ、
    自分の弱さが見えてきてなりません。

    日本は本当に平和ですよね。
    その平和に甘んじている自分も自分ですが、
    けれど少しでも自分のできることがあれば、できるなら、
    やりたいと思っています、
    思うだけじゃなくて実行しないと。。。


こんなに若い世代の人が、
これほどまで真摯に考えようとしていることは
ひめゆりのおばちゃんたちにとっても
大きな励ましだろうう。
再度、お礼をいいたい。
SKさん、ありがとう。

2006年11月21日

埼玉県のYAさんから

今週は、皆さんから寄せられているメッセージを
素直に紹介していきたい。

きょうは、埼玉県のYAさん(24)からのメッセージ。


    私は修学旅行で一度だけ
    沖縄を訪れた事があります。
    その時に、ガマの見学をする
    機会がありました。
    足元も見えないくらい真っ暗な中、
    一番奥までたどり着き
    全員が懐中電灯を消して
    ガイドの方のお話を聴きました。
    半世紀前と同じ暗闇の中、
    自分には想像もつかないほど
    辛い経験をされた沖縄の方達を想いました。
    涙が止まりませんでした。

    でも、そのガマの天井付近からは
    一筋の陽光が差し込んでいました。
    あの光がもし半世紀前にも見られていたのなら
    ここに居た人たちはその陽光を目に、
    何を想ったのか。
    希望を、勇気を、抱けていたら嬉しい。

    それから、沖縄戦のみではなく大東亜戦争についても
    自分なりに調べるようになりました。

    私も昨今のメディアでの戦争体験の取り上げ方に
    疑問を持ち続けていました。
    主観で話す司会者、発言に責任をもたないコメンテーター・・・ 
    番組自体が、取り上げている局の主観で構成されているのを感じ、
    とても嫌でした。

    どこまでも語り部に耳を傾け、
    その心を観ている人にそのまま届けたい、
    という柴田さんの姿勢に大変感銘をうけました。


            (注)アンダーラインは柴田

YAさん、ありがとう。

2006年11月22日

香川県の高校生AFさんから

今日は、香川県の高校生、AFさん(18)から届いたメッセージを紹介したい。


    Coccoの毎日新聞の連載から、この映画を知りました。
    監督さんのブログも拝読致しました。

    沖縄には中学のときの修学旅行で行き、
    とても好きな場所です。
    ひめゆりの祈念館にも行きました。
    資料をずっと下を向いて読んでいたために
    具合が悪くなり、
    残念ながら最後の部屋を見ることが
    できませんでした。
    もう一度、大学生になったら
    自分で行ってみたいと思います。

    沖縄やヒロシマなどの書籍は多くありますし、
    読むと心がしめつけられるくらい
    伝わってくるものがありますが、
    やはり生の体験者の声は、本当に、
    心に沁みてきます。
    修学旅行の時に、夜ホテルで
    ひめゆりの方からのお話を学年全員で
    お聴きしました。
    泣きながらそれでも私たちに
    伝えようと話してくださったこと、
    今でも本当に感謝しています。
    糸数壕にも行って、実際中を歩きました。

    憎しみや哀しみはいつまでも残すべきだとは
    思いませんが、
    想いは残していかなければならないものだと
    本当に強く感じました
    それを伝えていかなければならないのは、
    私たちなのだとも思います。
    日常の中では忘れてしまいがちな事たちも、
    心のどこかに常に置いておきたいです。


             アンダーラインは柴田

AFさん、ありがとう。

2006年11月23日

鹿児島県のAMさんから

きょうは、鹿児島県のAMさん(28)から届いたメッセージ。


    鹿児島には特攻隊員を奉った記念館がいくつかあり、
    私も何度か足を運んだこともありますが、
    訪れる度に悲しい気持ちになります・・・。

    そんなこともあり、今まで沖縄に行っても
    ひめゆりの塔には行ってみようと思ったことは
    ありませんでした。

    でも、Coccoが一生懸命ひめゆりや沖縄の戦争の話をしてくれて、
    涙が止まりませんでした。
    次、沖縄に訪れたときは必ずひめゆりの塔に行こうと決めました。
    ひめゆりについてもっと知りたいと思いました。

    この映画のこともCoccoのH.Pからの記事を読んで知りました。

    私たちのような戦争を知らない世代は、
    過去に目をそらさないで、もっと戦争のことを
    知るべきだと思いました。

    大好きな青い空と青い海がいつまでも続きますように・・・
    もっともっと平和な世界になりますように・・・
    戦争について少しでも理解できたらな・・・と思いました。


AMさん、ありがとう。
ひめゆりの塔を訪れることのできなかった
あなたのような人にこそ。
この映画をぜひ観て欲しい。

ひめゆりの人たちの
悲しいけれど、大きく包んでくれる心に
触れられると思うから。

「ひめゆりの風」があなたにも
吹くと思うから。

2006年11月24日

東京のMMさんから

きょうは、東京都のMMさん(31)から届いたメッセージ。


    初めまして。
    coccoのコラムからこちらに辿り着きました。

    沖縄が大好きで何度も足を運びながら、
    ひめゆりの塔は
    入り口のところまでしかいけてません。

    なんだか恐かったんです。
    広島の原爆資料館に修学旅行で訪れたとき、
    あまりの衝撃に気分が悪くなり、
    目をそむけながら、
    足を早めながら、
    ちゃんと自分の心で受け止めることが
    出来なかったことが
    トラウマになっているのかもしれません。

    平和のために私なんかが
    出来ることがあるのだろうか?

    私にできることは事実を受け止めること
    そして伝えようとしている声に耳をかたむけること
    そう素直に思えたから
    目をそらさずに向き合いたいと思いました。

    東中野で待ってます。
    たくさんの人にこの映画がとどきますように。


(注)アンダーラインは柴田


MMさん、ありがとう。
耳を傾ける、とても素晴らしいことだと思う。
ミミズクのように耳をすます。
語る人の心臓の音までも聞こえるぐらいに。
それだけで、多くの人が救われると思うのです。


2006年11月25日

兵庫のNMさんから

きょうは、兵庫県のNMさん(29)から届いたメッセージ。


    わたしは、今から8年ほど前、はじめて沖縄を旅行した時、
    ひめゆりの塔を訪れました。
    でも、本当は怖かったんです。
    わたしは、戦争物にものすごく弱く、ずっと目を逸らしてきました。
    それは、戦争の持つ、あまりにもの哀しみ、惨さ、恐怖を
    体全部で受けてしまうからです。

    小学校3年の時、初めて観た「裸足のゲン」。
    その衝撃に、何日も、何年経っても、
    例えば夜ベッドに就いた時、
    眠れない夜を幾度となく過ごしてきました。

    それからというもの、あらゆる戦争に関する物から
    目を逸らすようになりました。
    授業で戦争のことを習っても、あまり深く考えないようにしました。
    あんなに話題になった「シンドラーのリスト」も観れませんでした。

    でも、本当は解っていたんです。このままではいけないこと。

    湾岸戦争が起こった時、
    いくら考えないようにしていたといっても、哀しかった。
    昔話ではない戦争が、わたしの生きている同じ時に起きている。
    なんでだろう。そう思うと、哀しくて仕方なかった。

    戦争で受けた玉が足に入りっぱなしだった祖父は、
    毎年夏にやる「火垂るの墓」が始まると、
    決まってテレビを消しました。
    男の従兄弟に戦争の話をしたこともあったようですが、
    女であるわたしには一度もしたことがありませんでした。
    戦争に、家を奪われ、家族を奪われ、時間を奪われ。。。
    計り知れない哀しみがあったんだろうと思います。

    でも、わたしも、知らなくては、と思う。
    coccoが言ったみたいに、
    忘れたいことを話してくれるおばぁの話に
    耳を傾けることがどんなに大切か。

    きっと、もうすぐ聞けなくなる。
    失ってからじゃあ、遅いんだよ。

           (注)アンダーラインは柴田
    
NMさん、ありがとう。

「裸足のゲン」を観て何年も眠れない夜を過ごした・・・。
きっと、映画で描かれている世界と日常との間に横たわる
目に見えない深い溝に落ちないよう
必死だったのですね。

僕は、この作品を編集しているときが
たいへんでした。
毎晩、夜横になると、
自分が戦場に放り出されたように
イメージがつぎつぎと湧き上がり、
寝付いたあとも、夢に出てきました。

でも、僕らのひめゆりの映画は、
つらい事実も語られますが、
トンネルの向こうの出口は見えると思います。
映画を観てしばらくはまた眠れなくなるかもしれないけど、
その後は、自分自身の中で
しっとりと落ち着くものが生まれると思います。
恐怖というものはなくなり、
「ひめゆりの風」も感じられるようになり、
現実を見据えられるようになると
僕は信じています。
(そう信じないと、監督できないし・・・)


2006年11月27日

再び埼玉のYAさんから

11月21日にご紹介した埼玉県のYAさん(24)のメッセージ、
実は最後の部分が文字化けしていたため、
僕が省略して掲載しました。
そこに何が書いてあったのか、
YAさんからメールが届きました。

彼女の一番言いたいことはそこにあったということで
きょうは、そのYAさんからのメッセージとともに
きちんとご紹介します。


    掲載にあたり、わざわざご連絡を頂きまして
    ありがとうございます。

    先日こちらがお送りしたメッセージの
    最後の文章が文字化けしてしまっていますね・・・。
    すみませんでした。
    でも、最後の
    『最も悲惨な経験をした島だからこそ、
    沖縄から平和の心が弘まる事を信じています。』

    というのが、私の一番強く思っている気持ちです。

    先日、父に「ひめゆり」の話をしたところ、
    自分も観たい、と言っておりました。
    これからも友人・知人に「ひめゆり」の事を話し、
    沢山の人たちが「ひめゆり」を目にする事が出来る様に
    微力ながら応援させて頂きたいと思います。
    中野での上映を心待ちにしております。

    ご多忙とは存じますが、
    どうかお身体にはお気をつけ下さい。


ありがとう。
最後の文字化けの部分、趣旨よくわかりました。
きちんと確認しないで、ごめんなさい。

お父様も観ていただけるかもしれないのですね。
ありがとうございます。
ご友人にも声をかけていただけるなんて、
とてもうれしいです。

ところで、この作品は、ひたすら「語り」です。
普通のドラマや、テレビ・ドキュメンタリーとも
ぜんぜん違う手法です。
ですから、お父様やご友人に話をするときも
ドラマチックなものは期待しないように言ってくださいね。
でも、日本映画の歴史の中で、
これだけ語りに耳をかたむけた作品は
例がないと思います。

観ている方々の想像力を強く求めるという
この作品の作りは
きっとあなたなら共感していただけると、
あなたからのメッセージを読みながら思いました。

掲載させていただいた日、つまり11月21日は、
そんな願いをこめながら掲載させていただいたのですが、
先週からずっとあまりに忙しくて疲れきっており、
きちんとコメントもできないままでした。
ごめんなさい。

それでは、今後ともどうぞよろしくお願いします。

2006年11月28日

千葉県のHNさんから

きょうは、千葉県のHNさん(21)からのメッセージ。


    以前からCoccoを好きだったわたしは、
    彼女を通じて沖縄を愛するようになりました。
    そして、今年の10月に沖縄に行く機会を持つことが出来ました。
    本島に行くのは初めてでした。

    しかし、そこには
    今まで彼女を通して想い描いていた沖縄とは
    かけ離れた過去が刻まれていました。

    あの地を踏むには、まだわたしの足は幼く、脆く。
    全てを受け止めるには心が幼かったです。
    魂が揺さぶられるようなそんな感覚を起こしました。
    身体がすくみました。

    海が余りにも深く、
    太陽は目眩を起こすほど燦々としていて、
    大地は何処までも広がっていたから。
    どこまでも、いつまでも…
    そんな沖縄を想い描き続けていました。

    わたしは自分の
    現代に浸かり過ぎた幼稚な自分を
    恥ずかしいと感じました。
    涙が止まりませんでした。
    身体の震えも治まりませんでした。

    それでも、ひめゆりの風は
    わたしの涙に優しく触れてくれました。

    わたしたちはほとんど知りません。
    知る術すら社会は教えてはくれません。

    …でも、絶対に伝え紡いでいかなければならないと想います。
    過去から心が解放されることはないかもしれません。
    それでもわたしたちの心は、開放することは出来ます。
    心におばぁたちの痛みを受け入れる心は持てます。

    一度訪れただけではカケラすら
    触れることさえ許されないのかもしれません。
    それでも、わたしは触れ続けて生きたい…
    そう想います。

    少しでも多くの方が「沖縄」という地の過去を知れますように。

    此処から祈り続けさせて頂きます。


HMさん、ありがとう。
沖縄の、青い海と空というイメージと、
過去にあった出来事とのギャップ。

HNさんの心にも「ひめゆりの風」が吹き、
優しく包んでくれたときき、
うれしいです。


皆さんに質問です。 

この映画の撮影をしてくれたカメラマン4人の中で
もっとも若い川口慎一郎君(27)が言います。

「もしこの映画に携わらなかったら、
 ひめゆりのことは何も知らなかった。
 多くの若い人は、『ひめゆり』という言葉を
 聞いたことがないのではないか」
と。

その言葉に、僕は
とても衝撃を受けています。
本当なのだろうか?
「ひめゆり」という言葉を知らない人が
若い世代では主流なのだろうか?

皆さんのまわりはどうですか?

「ひめゆり」知らない?
 
   ※もちろん映画のことではなく
     ひめゆり学徒隊のことです・・・。


川口君によると、
沖縄で地上戦があったことすら
知らない人が若い世代では多いと言うけど、
それもどうですか?

2006年12月 1日

師走

師走に入った。
雲南の撮影チームが昨日戻り、
フィンランドの撮影班が冬ロケの準備を始めた。

11月はCoccoさんの風が吹く中、
東京で初めての試写会(沖縄以外で初めての試写会)を開き、
予想以上に皆さんから高く評価していただいた。
本当に意外だ。

正直言うと、編集しているときは
劇場公開とか、どこで上映するとか何も考えず、
ただ「きちんとまとめたい」という思いだけだった。
今のうちにきちんと形にしておきたい、
おばちゃんたちの目の黒いうちに
おばちゃんたちが納得の行くものにしておきたい。
それだけを考えていた。

だから、こうして上映に向けて準備している自分に
今とても不思議な感じがする。

あさって日曜日から一週間余り、
また沖縄に行く。
ゆっくり、ゆっくり考えたいから。
今後のこと、
ひめゆりの未来のこと。
沖縄の未来のこと。
日本の未来のこと。
もちろん、僕自身の根っこのことも。


------------------------------------------------

「皆さんに質問です。」に答えてくださっている皆さん、
ありがとうございます。

お答えを読ませていただきながら、
あまりに多くのことを考えさせられ、
メールやコメントに
すぐに返信できないものがほとんどです。

この質問と、そのお答えのことは、
今後とも大切にして行きたいです。

2006年12月 2日

susieさんへ

11月28日の「皆さんに質問です。」にコメント投稿してくれたsusieさんが、
面白い質問をしている。

   沖縄で、タクシーの運転手さんと、同乗したオバァがこう言っていました。
   「別に、沖縄だけじゃないからよ。
   もっとひどい目にあったところはたくさんあるさあ」
   私のように、沖縄戦に対して特別な想いを持って
   来た人たちのことを、あまり良く思っていないのかしら?
   同情されてるように思われたのかしら?と不安になりました。
   沖縄の人たちは、本当はどう思っているのでしょうか。
   今でも気になっています。

susieさんは元気のいい人だ。
オバァとタクシーに同乗した、というシチュエーションがすごい。
市場かどこかで知り合ったオバァなの?
ドラマみたいだね。

さて、susieさんが気になっている
   「別に、沖縄だけじゃないからよ。
   もっとひどい目にあったところはたくさんあるさあ」
というオバァたちの反応について。

よく分かる、そのリアクション!
とても沖縄の人っぽい!
susieさんのセリフの書き方もとてもうまい。
よくオバァ言葉をとらえている。
でもオバァたちがなぜそう言うのか、
僕にも言葉にするのは難しい。
沖縄生まれ、沖縄育ちの僕のカミさんと
話し合ってみた。

カミさん曰く、
    私が若い頃、よく本土の人たちが
    「沖縄の人たちに対して申し訳ない、
     あんな犠牲を出してしまって申し訳ない、
     とてもじゃないけど、沖縄の地に
     行くことはできない」
    という言葉を聞いた。
    それを聞くと、なんか「寂しいなぁ」と思った。
    罪悪感を持ってしまって沖縄に来ないよりも、
    まずは来て欲しい、知って欲しい
    ずっとそう思っていた。

つまり、心の壁ができてしまうことが嫌なんだね。
だから、沖縄戦を特別に取り上げて「申し訳ない」と言われると、
「いや、沖縄だけじゃないからよ」
と答えてしまう。
心と心でバランスを取ろうとしているんだと思う。

でも、沖縄戦のことを何も知らずに、
ただのリゾート感覚で来る人に対しては、
沖縄の人も「辛いのは沖縄だけではない」とは決して言わないだろう。
心の中で憤りを感じている人も多いと思う。
でも、「あなたの責任、本土の責任だ」と口にはしない。
黙って、じっと見ている。
そのときの沖縄の人の表情は、
けっして怒った表情もしない。
笑っている、焦点の合わない笑顔をしている。
心で絶望しながらも笑う。

しかし、沖縄の人にとっての最大の侮辱は、
次のような言葉だろう。
    「久間章生防衛庁長官は23日夕、長崎市内で講演し、
    米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設問題に関し、
    先の沖縄知事選で与党が推薦した仲井真弘多氏が
    敗北した場合を想定、
    代替飛行場建設に必要な公有水面の埋め立て権限を
    県知事から国に移譲するための
    特別措置法制定を検討していたことを明らかにした。」
沖縄の意思なんて知ったことではない、
日本政府のやりたいようにやる・・・。
お金(沖縄振興策)を目の前にちらつかせながら、
沖縄県民の心を分断していくヤクザなやり方。

カミさんは、次のような言葉がやりきれないという。
    「沖縄の人は基地ではなく経済を選んだんだよ」
基地のかわりに経済振興を選んだという
二者択一の見方をされること、
心の痛みを知らずに結論づけられてしまうこと。
これが最もつらい、と・・・。

でも、沖縄の人は、じっと黙って
苦渋の選択に耐えている。
心では泣きながらも笑っている。
まるで寅さんみたいだ。

もちろん、沖縄の人も、全部が同じ考えではない、
それぞれ違った感じ方をしている。
ここに書いてきたのは、こういう感覚の人が多いかな、
ということ。


ところで、susieさんのコメントには、
アメリカでの歴史教育についても書かれていた。

    彼(五嶋龍)はアメリカの普通の学校に通っています。
    歴史のカリキュラムが「第二次世界大戦」の事に進むということで、
    「日本人」でもある龍くんに、
    「アメリカ側からの視点での内容になること」を承諾する
    念書を書かせているシーンがあるのです。

歴史は見る視点によって全く違ったものに見えるということを
アメリカの学校ではきちんと認識しているんだ!
知らなかった。
教えてくれて、ありがとう。
ちなみに、アメリカでは、
原住民(インディアン)との間の歴史についても
征服者側の視点に立っているという前提を
曖昧にしないでいるのだうか。


2006年12月 4日

沖縄にて

プロデューサーの小泉修吉さんと共に
きのうから沖縄に来ている。
今日は、ひめゆりの資料委員会(学級委員会のようなもの)だった。
11月13日のブログにも書いたように、
おばちゃんたち、主要な面々が集った。
冬の寒さを吹き飛ばすように、みんな元気だった。

沖縄での劇場公開の日程について話し合った。
3月23日、つまり「ひめゆり学徒動員の日」から公開を始める、
という方向で、これから調整していくことになった。
この日は沖縄戦が始まった日でもある

沖縄の人も、
沖縄戦が終わった6月23日のことは知っていても、
沖縄戦が始まった日のことはあまり知らない。

映画の上映開始とともに、
62年前のその日、その日に、
ひめゆり学徒たちはどうしていたのか、
そのことも併せて伝えて行きたいと思う。
(戦場の中での卒業式もあったんだ!)

桜坂劇場の支配人の真喜屋さんが
長期出張で沖縄を離れているため
最終決定はまだだが、
電話で話したときには、
真喜屋さんもその方向で良いという感触だった。

いよいよ具体化してきた。

3月23日は春休み中。
本土から沖縄へ映画へ観に行く人なんて
いないだろうか・・・。

2006年12月 5日

ポスターづくり

劇場公開にあわせて、
映画のポスター、チラシのデザインもゆっくり、ゆっくり進んでいる。

デザイナーは市川千鶴子さん。
ヨーロッパ映画の個性的なポスターを数々手がけてきた方だ。
去年は、ドキュメンタリー映画「六ヶ所村ラプソディー」のポスターも手がけ、
その出来栄えがとても素晴らしいと思った。
「六ヶ所村ラプソディー」のスタッフを通じて紹介していただいた。

市川さんは今頃きっと、試行錯誤をしていることだと思う。
これは、市川さんからのメッセージ。


    映画、拝見しました。
    お送りいただいたCoccoのコラムを読み、
    監督のブログで次々と寄せられる反響のメールと
    それに応える監督の言葉を読み、そして考えています。

    ゆっくりとやわらかな語り口調に聞き入ってしまいました。
    そしてその言葉がひしひしと胸の奥まで響いています。
    彼女たちが体験したことが、手に取るようにわかり、
    その状況を想像し、戦争がどれだけ怖く悲惨なものなのか、
    この年になって初めて実感した気がしています。
    今まで知った気になっていたことが、
    なんと上辺だけのことだったか。

    ブログのメールにもありましたが、誰かの演出も脚色もない
    体験者の言葉は、とても貴重で力がありました。
    想像以上ですっかりやられています。
    辛い記憶をかかえたまま今まで生きてきたことの強さに
    裏打ちされた彼女たちの言葉と笑顔は本物でした。
    本当にスドンと伝わってきています。
    長い時間をかけ丁寧に作ってきた監督にも敬服です。

    監督から、ビジュアル案をメールいただきました。
    キャッチフレーズ案はとても良いと思います。

    私が気になっているのは、監督がブログで使っていた
    「ひめゆりの風 Coccoの風」の「風」という言葉。

    ひめゆりの方々だけでなく
    沖縄の大地と空と海も戦争の証言者ではないか。
    海岸の岩の間を、皆の想いのこもったが、
    今も吹いているのではないか。

    Coccoの言う「スカートの裾にふく風=ひめゆりの風」だとしたら
    その風はとてもやさしい生きる人を励ますようななのではないか。
    風が表現できるといいな、と考えています。

    あと、沖縄の空や海は特別の色なので、
    その鮮やかさを出したいです。


12月末までには、ビジュアルのイメージが固まるはずだ。
年明け早々には印刷に出し、
2月から予定しているプレス試写(マスコミ向けの試写)に備える。
また最初に公開する沖縄の桜坂劇場にも、
1月末か2月初旬にポスターを置けると思う。

2006年12月 6日

再び兵庫のNMさんから

11月25日にご紹介した兵庫のNMさんから、再び届いたメッセージ。

    映画を早く観たいという気持ちの反面、
    まだちょっと怖いなと
    思う気持ちがあるのも事実です。
    しかし、お返事の中で
      トンネルの向こうのかすかな出口は見えると思います。
      3日ぐらいは眠れなくなるかもしれないけど、
      その後は、しっかりと戦争に目を見据えられるようになると
      僕は信じています。
    この言葉に背中を押されています。

    そして、おばぁ達の話をちゃんと自分で受け止めた時
    ようやくわたしも前に進める勇気を持てるような気がしています。

    そして、柴田さんも心を痛めた日々が続いたこと。
    きっと、わたしも大丈夫。
    知らなくても生きてこられたけど
    知って生きていきたい。
    強く思っています。

    それから、以前のブログに書かれていたおばぁの言葉。
      「『怒り』をそのまま相手に返すなよ。
      じっと我慢しなさい。
      それは神さまが返してくれるから。」
    真の強さと、大きさと、優しさを感じました。
    わたしも、そんな人間になりたいです。

    公開まで、忙しい日々、大変なご苦労が続くと思いますが
    どうかお体に気をつけてがんばってください。
    わたしも、自分なりに勉強しながら公開を待っています。


NMさん、あなたが前向きに歩もうとしていることに
僕らも励まされます。
ありがとう。

2006年12月 7日

月夜に想う

きょうの沖縄本島南部は雨。すごいスコール。
夜になって、月が出た。

昼は資料館でおばちゃんたちの話を聞く。
汲めども尽きない井戸。
聞けば聞くほど、知らない話が飛び出してくる。

これまで記録した話は約100時間。
映画にできたのは わずか2時間。
50分の1に圧縮した、味クーターな(味の濃い)映画。

それでも、これは
おばちゃんたちの体験のほんの一部にすぎない。
まだまだ聞けていないことがたくさんあることに
あらためて愕然とする。

来年になったら、またカメラを回そう。
そして、続編、続々編、続々々編を作ろう。

  (まだ映画を観ていない皆さんにそんなこと言うのも
   たいへん申し訳ないと思いつつ、書いております・・・)


追伸 Coccoの風を郵送してくれた青森出身のKMさん、
    手紙、確かに資料館に届きました。
    とても心に響く文章ですね。
    ありがとうございます。

2006年12月 8日

26歳のおかみさん

沖縄本島南部、本日は快晴なり。

僕のお気に入りの宿の壁に掛けられた
Coccoさんの祖父、眞喜志康忠さんの直筆の色紙が
朝の陽射しの照り返しを受け
にぶく輝いている。

   低く暮し
    高く思う
      眞喜志康忠

民宿のおかみさん、藤原奈央子さん(26)は
沖縄芝居が大好きで、
巨匠、康忠氏がたまたま近くにお茶を飲みに来た時
サインをねだったという。

奈央ちゃんは神戸出身。
中学生のとき阪神大震災で被災した。
そのときボランティアで来た沖縄人の素敵な笑顔が忘れられず、
「いつか沖縄においでよ」と言われた言葉どおりに実行した。
今は糸満でエイサーや古武道をしながら
民宿の運営をしている。
いや、逆か・・・、民宿の運営をしながら
エイサーや古武道をしている・・・。
というべきなのだが、
お客さんが少ないときは近くのコンビニなんかでバイトしているので
何が彼女の本業かは、一概には言いがたい。
パワーあふれる人だ。

この宿は、ひめゆり資料館リニューアルのときの基地でもあった。
総設計をお願いした岡部憲明さん(関西新空港を設計した建築家)をはじめ、
スタッフ全員ここに泊り込んで、
昼も夜も資料館に通った。

映画の撮影のときも
最後の3回ほどはお世話になった。
僕がくたびれはて、
レンタカーをぶつけまくったことがある。
知念岬の駐車場の路肩に乗り上げパンク、
山城丘陵で再びパンク、
糸満高校の駐車場では校舎柱に衝突し
車後部が大破。
一週間の間に立て続けに起こった。
そんなとき、奈央ちゃんが駆けつけ
ニコニコ笑いながら助けてくれたものだ。

奈央ちゃんの夢は、
色んな人の出会いが生まれるような場をつくること。
人と人がつながっていくことで、
新たな夢が生まれる場をつくること、という。

確かに、この宿には、
夜になると地元のおばぁ、にいにい(青年)たちが集っては
話に花を咲かせる。
この宿の主なお客さんは
一杯100円の泡盛や
一缶200円の発泡酒を飲みにくる人たち。
この3日間、宿泊客は僕ひとり。

沖縄で暮している限り
金銭的に豊かになることは望めない。
貯金なんて夢のまた夢。
でも、人と人が信頼しあい、
助け合って行けば、
辛いことも楽しみに変わる。

    低く暮し 高く思う

眞喜志康忠さんの言葉は
知恵と矜持に満ちている。

Coccoさんも言っていたっけ、

    来年の予感。
    お先真っ暗
    でも、大丈夫。
    歌を掲げて全力前進。
    願うだけじゃ、叶わないこと。
    叶わない夢もあるってこと。
    それでも進め。

26歳のおかみさん、奈央ちゃんは
きょうも元気に「バイト」に出かけて行った。
  (何が本業か、もう分からん)

日本軍の真珠湾攻撃、マレー半島上陸からちょうど65年目の
朝のひとつの風景だった。

2006年12月 9日

紅型(びんがた)修行

昨夜は鳥取県出身のTNさん(25)に案内され、
「ひめゆり」を上映してくれる那覇・桜坂劇場の偵察を兼ねて
劇場周辺の盛り場界隈に繰り出した。
そして、体験したことのない不思議なバーに行った。
おかげさまで、新鮮な空気を吸い、
今日は朝から仕事がよくはかどっている。
ありがとう。

TNさんは、4年前に沖縄に移住してきた。
Coccoさんのファンで、ゴミゼロにも参加した。
彼女の夢は、沖縄の染め物、紅型(びんがた)の作家になること。
いま、伝統的な技法と道具を守る紅型工房で修行中。
そうした工房は、沖縄県内でも数少なくなったとういう。

沖縄の伝統工芸の経営は厳しい。
TNさんの仕事は朝9時から夕方6時まで、
月曜から土曜日まで休みなく働いているが、
彼女が一ヶ月にもらう給料は
○万円という。
食事は工房で出してくれるものの、
アパートの家賃すらまかなえない。
「勉強のため」と自らに言い聞かせ、
親から仕送りをしてもらいながら、日々研鑽に励んでいる。

もちろん、迷い悩みも多い。
いつまで続けて行けるのだろうか・・・、
果して自分はこの仕事に向いているのだろうか・・・、
早く成果を出さないと・・・。
そんな煩悶が、ようやく最近になって、振り切れつつあるという。

TNさんの良いところは、
自分自身の考え方をしっかり持っていること。

    私は沖縄へ来てすぐ、ひめゆりの塔に行きました。
    語り部の元女学生の方の話を聴き、
    実際にあったこと、記述などを見て
    涙が止まりませんでした…。
    実際にこの沖縄の地で現実にあったこと、
    語って下さった方々の痛みと強さ、
    この痛みを知らずに、沖縄にいて工芸を学ぶのは
    失礼だと思ったし、礼儀だろうと思いがあったからです。
    実際に紅型染めの歴史も、戦後一時途絶えたものを
    偉大なる先生方が血の滲む想いで復興されたのを知っていたので…。

TNさんの学んでいる染物、紅型(びんがた)は
沖縄戦後に、米軍の銃弾の薬きょうなどを利用して道具を作るなど
TNさんの言うとおり、血の滲むようなプロセスを経て
復興を遂げた。

    私は、家族で社会問題について話す事が多く、
    戦争体験した祖母から話を聞いたりなど、
    考えるという環境には恵まれていたのかもしれません。
    沖縄へ来る人の中には、メディアの影響で
    「観光地沖縄」のイメージが強調され、
    激戦地だった沖縄を知らずに過ごしてしまう人も
    多いみたいです。
    やっぱり、わざわざ辛い事を見るのは痛いし、見たくない。
    でも、風化して、すべて過去の事として、
    その事に対して知らない、知ろうとしない事は
    一番いけないことだと私は思います。
    個人の意識の問題かもしれないけれど、
    過去にあった事を過去のものとして背を向けず、
    受け止めて次に伝えるという義務が、
    私たち若い世代にはあると思う。

TNさんが連れて行ってくれた那覇・桜坂の裏町のバーは、
今にもコンクリにヒビが入りそうな古いアパートの3階。
屋根裏倉庫の趣きの、暗い小さな空間だった。
オーナーの自称「アル中ハイマー」さんが、
最近ミクシー経由で入手したという「おっぱいの歌」で
迎えてくれた。
ユーモアたっぷりの楽しい替え歌だった。
つづいて披露してくれたのが自作の詩。
911をきっかけにイラクで繰り広げられている
イラクの人々に対する虐待と、
その現実を知らずに米国に加担する
私たち日本人の悲しさと矛盾を
短い言葉でつづっていいる。
すばらしい朗読だった。

TNさんの言葉。

    知らない事(無知)はいけないと思うけど、
    知らせようとしない教育とか、メディアとかにも疑問。
    でも、無知はだめというのは簡単だけど、
    じゃあそれに対してどうするのか、
    どうしたらより多くの人に知ってもらえるのか、
    考えあって、話し合って、
    具体的に動く事が大切なんじゃないかと思う。
    戦争から半世紀も経って、益々学びにくいけど…
    私が親になった時、伝えていきたいし、一緒に考えていきたい。

TNさんは、厳しい職人工房の環境にもめげず、
沖縄で色々なことを吸収している。
考えている。

    沖縄にいて地元の新聞を読んでいると
    毎日が「アメとムチ」。
    おいしいアメ(優遇政策)をチラつかせられたかと思うと
    翌日には冷たく突き放される。
    そんな言論の中を、私たちは生きている。

アメとムチとの間を行き来し、
自らの言論の足場を失いつつある沖縄のメディア。
TNさんの実感では、沖縄の人々はいわば
「言論のジェットコースター」に乗せられている。
そして感覚が麻痺してしまう。

彼女の救いは、工房の先生が尊敬できる人だということだろう。
今の世の中、「尊敬できる大人」が絶滅危惧種となっている。
そんな人に出会えただけでも、
生きる勇気が湧くというものだ。

たいへんだろうけど、
まずは自分の職を確立することも大切。
学べることを、とことん学びながら、
同時に、この社会をよくするためのことを
考えて行きましょう。

    ひめゆりの映画で語って下さった
    元女学生の方々の勇気と想いと願いが、
    一人でも多くの若い人に伝わるよう、考えるよう、
    私のできることから一つずつしていきたいと思います。

ありがとう。
映画のチラシができたとき、
配るのを手伝ってくれるっていう。
それだけでも、大いに助かります。


2006年12月12日

やしがこっこい

いま東京に戻った。

きょう ―― いやもう昨日になってしまったが
月曜日は、ひめゆりの「資料委員会」、
つまり、ひめゆり学徒生存者の“学級委員会”の日だった。

この日のために僕は何日も徹夜で資料を準備し
朝着いたときから、もう眠くてたまらない。
40歳になる前は、
何日徹夜しても平気だったんだけど、
今は一晩完徹しただけでも、翌日はかなりこたえる。
僕がそう言うと、おばちゃんたちは
「70代と80代でも全然違うよ」
と口々に言う。

「80歳になると、しっかり歩いているようでも
 どこか足腰がおぼつかない。
 かーがんぬる あっちょんどー。
 (まるで影が歩いているようだよ)
 平衡感覚が麻痺して、
 自分が歩いているんだか、影が歩いているんだか
 よく分からないような感じよ」

一見元気そうに見えるおばちゃんたちだが
たとえばスカートを履くときに
何かに寄りかからないとふらつくし、
階段を歩くのが大変だという。
このところ忙しいのか、
表情に疲れの目立つ人もいる。

おばちゃんたちは「100歳までがんばる」と
言ってくれるけど
本当にいつまでもお元気でいて欲しいと
切に思う。

色んなことを話し合ったのだが、
Coccoさんの12月4日の「想い事。」も
みんなで読んだ。
いつもの通り、声に出して音読するのだ。

いきなり
     一番うれしかったこと。
     ひめゆりのおばぁ達に
     Coccoのライブ映像を
     観てもらえたこと
で始まるから、おばちゃんたち少し緊張するが、
     今年しくじったこと。
     いっぱい
のところで皆、大笑い。

それからは、
まるで可愛い孫娘の手紙を読むかのように
和気あいあいと、
ときには爆笑し、
ときには「なるほどねぇ」と相槌を打ちながら、
一節一節心に響かせながら、読み終えた。

「すばらしい表現力ね」
「このまま詩みたいさ」
と、おばちゃんたちは感動している。

最後に、
    「やしがこっこい、
     なんくるならんどー」
という一節をめぐって、
どんな意味なのか、皆で楽しい議論になる。
「やしが」は方言で「だけど」の意。
では、「こっこい」はどういう意味なのだろう?

「こっこい」は一般には意味のある言葉ではない。
相槌を打つことば。
拍子を取って、音の響きを楽しむ方言だ。

「やしがこっこい」は、敢えて訳せば
「だけど、どっこい」という感じかなぁ。

おばちゃんたちの中で
別の説が浮かび上がってきた。
「Coccoさんの名前は
 『こっこい』から来ているのだろうか。
 Coccoさんは、おばあさんから幼い時に
 『こっこい、こっこい』と呼ばれていたのでは?」

ひめゆりの資料委員会は、こうして
大いに脱線を楽しんだ。

ちなみに、ひめゆりの方々は数年前に
Coccoさんの祖父、眞喜志康忠さんを招いて
講演会(勉強会)を行ったことがあるという。
眞喜志康忠さんは沖縄芝居の大スター。
若い頃は「芝居しい」と馬鹿にされながらも
苦労して努力を重ね、
沖縄の文化に新たな美の基準を築き上げた人だ。
貴族の流れを汲む首里方言とは異なった、
庶民の言葉としての沖縄共通語を確立し
沖縄芝居を、村芝居のレベルから芸術の域へと引き揚げた。
ひめゆりの“学級委員長”、本村つるさんは、
お兄さんが眞喜志康忠さんと小学校の同級生だったという。
本村つるさんは、眞喜志さんの苦労と活躍を
陰ら見守ってきたのだった。

その後、Coccoさんのファンの、
青森出身のKMさんから送られてきた長い手紙を
読み合わせる。
とてもよく考え、練られた
珠玉の言葉が綴られている。
おばちゃんたちも感動するし
僕自身がとても多くのことを教えられた。

KMさんの手紙はすごく長いので、一回では紹介しきれない。
数回に分けてになると思うけど
明日以降、きちんとご紹介させてください。

2006年12月14日

もう一人のアンネ・フランク(1) 青森出身のかなえさんから

きょうから何回かにわたって、青森出身のかなえさんからの手紙をお伝えします。
手紙なのでタイトルは無いのだけれど、
後半になって彼女が語る大きなテーマを踏まえ
「もう一人のアンネ・フランク」と題しました。
この手紙から僕は多くのことを教えられました。
長くなるけど、全文をご紹介します。
きょうは、その第一回目―――。


    こんにちは、始めまして。
    ひめゆりの風、柴田さんの風、Coccoの風を受けて、
    今、私の風として、手紙を書かせて頂きます。
    28歳、東京でアルバイトをしながら、
    絵本を作りたいなと日々のことから学んでいます。

    私は“三沢基地”という米軍にとっての重要な基地の1つを持つ
    青森県の南部に生まれました。
    戦争に関してはずっと反対の立場で生きてきたけれど、
    9.11以降、戦争に対する世界の意識の盛り上がりの中で、
    “戦争反対”“平和を”という言葉さえ、どこか言葉ばかりが先走り、
    一人歩きしているようで(自分の中でも、世の中でも。)
    いつの間にか、それを自分の力で、“自分の言葉”として、
    しっかり掲げられる自信がなくなってきていました。

    ふと気づくと、私は戦争の事をあまりよく知らない。
    戦争を知らなければ戦争を反対できないし、
    平和を感じられなければ平和を求めることができないかもしれない。
    イラク戦争の時も、アフガニスタンの戦争の時も、
    もっともっと自分の言葉に自信が持ちたかったから、
    何か知りたいと想うようになりました。

    そんな中、2006年夏、私は沖縄へ行き、
    ひめゆり平和祈念資料館を訪れました。
    以前からいつか訪れよう・・・そう想っていましたが、
    大きなきっかけを与えてくれたのはCocco。

    彼女が沖縄戦のことに触れる事は以前からあって、
    雑誌などで読み聞くごとに想いは強くなっていました。
    2006年8月15日、
    「たくさんの人が世界平和を願うその日に
    自分の愛する場所をちゃんと愛したい。
    皆がそれをしたら、それが世界平和だから」 
    そんな想いが込められたCoccoさんのライヴが
    沖縄で行われました。
    これを機に、私は今回ひめゆりを訪れることにしました。
    8月15日、ちょうどこの日、ライヴでCoccoさんは、
    柴田さんや資料館の皆さんもご存じの通り、
    ひめゆり平和祈念資料館についての話をしてくれました。

    訪れることを決めた時から、どこか心の中にありました。
    柔な恐れ。平和ボケ。
    よく戦争や平和(の活動)に興味がないという人から聞く
    遠い国の出来事、遠い過去の出来事。
    知らないほうが楽で、楽しく生きられる・・・
    というような(私にとっては)ちょっと逃げ腰の気持ち。

    知るのであれば中途半端に受け止めたり、
    通り過ぎたくはなかったです。
    でも受け止めるとなると、これからどんな、
    どれだけ重たいものを引き受けるのかしら・・・
    そんな力が自分にあるの? 
    そういうことに自信がなかったんです。

    Coccoさんの話してくれた元ひめゆり学徒の皆さんの勇気、
    私の見たCoccoさんの勇気。
    それがすごく美しいと想ったから、
    知ることで背負うものがあるのなら、
    私もこの肩をさし出そう。
    ライヴの後、そんな気持ちでした。

    翌日、ひめゆりの搭を訪れました。
    観光客の間をぬって平和祈念資料館へと
    足を進めました。
    夏の暑い日差しのその奥に静かに存在していた
    ひめゆり平和祈念資料館。
    館内に入ると穏やかな広いエントランスの空間に、
    窓から自然光が心地よく届いていたように記憶しています。

    展示室の展示品1つ1つ、
    私はできるだけ丁寧に目を通していきました。
    自分の中にちゃんと覚えておきたかったから。
    そしてある展示室・・・
    私が元ひめゆり学徒の方々の“ビデオでの語り”を
    見ていた時です。
    お話する声が別の場所から聞こえてきました。
    見ると、そちらに老婦人がいらして、
    病棟となった壕の説明をされているようでした。
    「語ってくれる人がいる・・・」

(つづく)

2006年12月15日

もう一人のアンネ・フランク(2) 

昨日に引き続き、青森出身のかなえさんからのメッセージを紹介します。

(前回からつづく)

    何年か前、もしかしたら、あれは、
    ひめゆりの方だったのかもしれません。
    私、自宅であるテレビを見ていて、
    沖縄のある平和祈念資料館で
    戦争体験を語ってくれる人がいることを知りました。
    「戦争を若い人たちに体験して欲しくはない。
    でも追体験はして欲しいのです」と。
    その言葉は、何故だか、強く心に刻まれていました。

    だから、語って下さる方を見つけた時、
    「追体験しにきたんだよ」 
    そんな気持ちで近づいていきました。

    その人は、広島から来たという目の不自由な2人の男性に
    語っていらっしゃいました。
    壕の中の様子・・・。
    壕の中での生活や治療、仕事の様子。

    お話を聞いて驚きました。
    お話の内容以上に、むしろ自分の反応。
    涙は出てきませんでした。
    胸のあたりがひっかかれ、乱され、
    ボロボロ落ちていくような、
    そんな感覚を覚えました。

    心が・・・泣いているということ? 
    私は戸惑いました。
    お話の1つ1つ、
    戦時下においての“日々の事”として語られる1つ1つが、
    私にはどうしても上手く想像できないし、
    ありえない事でした。

    頭では上手く理解できない、
    感情でも寄り添えない。
    でも自分自身が“戦争だから”で飲み込みたくない事実。
    小さな事なんです、傷口を消毒するとか、水を飲むとか・・・。
    そこに“戦争だから”で許されてはいけない、
    飲み込めないものがありました。

    今まで私は教科書、映画、TV、本、
    様々な方法で(受身ですが)
    いくらかは戦争のことを学んでいました。
    でも多くは、やはり児童、学生であるからとか、
    公衆のメディアであるからとか色々で、
    たぶん表現の調節もされ、
    ショックを受けるような事実も
    伝わる時にはオブラートに
    包まれたものだったのだと感じています。
    理解できる範囲で導かれていくので、
    飲み込むこともできたし、
    涙にもすんなりたどり着いてしまえました。

    語られたお話は、
    簡単には行けない場所にありました。
    人間として受け入れたくないということ、
    自分の体験からは想像を超えてしまっているということ、
    そのハードルにぶつかったまま、
    私はお話を、
    “わからない痛み”や“わからない恐ろしさ”や
    “わからない気持ち悪さ”として
    自分に手繰り寄せ、
    わからないなりに感じようとしました。
    今まで遠目で“わかった”としていたものを、
    手さぐりさせてもらっていたのだと想います。

(つづく)

2006年12月16日

もう一人のアンネ・フランク(3) 

引き続き、青森出身のかなえさんからのメッセージを紹介します。

(第3回)

    そして何より、語る彼女の“今”を見ては
    当時の“彼女”を頭の中で重ね、
    “そんな場所”にいた人が今、
    こんな平穏(とも言いきれはしませんが)な
    “私と同じ日々”の中に生きている・・・。
    そういう、1人の人物に対する2つの背景のギャップを
    埋められずにいました。

    自分と同じ“平和”を共有しているその人が、
    自分が決して共有することのない一つの“戦争”を
    抱えて生きているという目の前の事実。
    そしてそのギャップを埋められない自分がいるということ。

    私はいつの間にか、紛争の絶えない地域の人々を見る時も
    心のどこかで
    「そんな風に生まれたら戦争って
     あたり前になってしまうのかもしれないな・・・」
    というように、
    自分のいる所から線を引いていたんじゃないかな、
    そんな気がしたんです。

    あの時、目の前にいらした元ひめゆり学徒の方・・・
    1人の人間が、戦争がなければこうして暑い夏の日、
    静かな建物の中で整った服も着て、
    くつもはいて人と話をしている。
    のどが渇けば水だって飲める・・・。
    あたり前の事なんですけれど、そのあたり前を
    改めて感じていたのです。
    ずっと、バカみたいに情けないけれど、
    頭でわかったつもりになって、リアルに感じていなかったんです。

    戦争を知らない私達が
    メディアなどを通して心に刻んでいく多くの戦争には、
    いくらか予想できる感情の流れや訴えが組み込まれていて、
    そこに答えも用意されているものも多いです。
    でもその答えが事実とは限らない。
    そんな中ですんなり涙や悲しみにたどり着いてしまって、
    くり返すごとに、
    その“流れに慣れたこと”を “わかった”と勘違いして
    しまうかもしれません。

    体験者の方のお話の1つ1つを
    五感で感じとろうとした時、
    私は戸惑いました。
    でもその戸惑いの中で受けとめた感覚は、
    勘違い・・・よりは少し、真実に近いもので
    あったのではないかなと想います。

(つづく)

2006年12月17日

もう一人のアンネ・フランク(4) 

引き続き、青森出身のかなえさんからのメッセージを紹介します。

(第4回)

    もう1つ、お伝えしておきたいことがあります。
    ひめゆりを訪れて、自分の中で繋がった人がいました。
    アンネ・フランク。

    一般に小中学生が彼女と出逢うように、
    私は小学生の頃、アンネの日記と出逢い、
    そこからアンネ・フランクに強くひき込まれていきました。
    遠い外国の少女でしたが、
    そこに綴られる日々のこと、
    彼女の性格のどこかに自分を重ねてみたりして、
    1人の友人のように、私は彼女に
    心で寄り添っていったのだと想います。

    でも彼女は戦争によって大切なものをたくさん奪われ、
    ついに命も奪われてしまいました。

    私は戦争を憎みました。
    本を読んでいくうちにではありますが、
    尊敬し信頼できる友人をふいに失ったも同然で、
    すごく悔しかったし、ショックだったのです。

    アンネの亡くなった年齢を越える時は心が引きしまったし、
    彼女の平和への願い(魂)は引き継ごうと
    心に決めてさえいました。

    でも、いつの間にか・・・
    大人になると何だか遠くなってしまった気がして、
    自分自身を愛せること、
    自分の周りを愛して大切にできているかなということ、
    そういうことすら、できたりできなかったり。

    アンネの想いを引き継げているの?
    その為に何か特別のこと、できているの?
    そういうことに自信はなくなっていました。

    そんな時、今回、私はひめゆりを訪れて、
    出逢ったのです。
    もう一人のアンネ・フランク。

    ライヴでCoccoさんも触れていましたけれど、
    資料館では亡くなった1人1人がちゃんと1人1人で、
    私と同じ顔のサイズ程の写真があって、
    名前も性格もあって、
    「数」ではなく対面することができました。
    もちろん多くのことはわからないけれど・・・。
    でも悲劇だけではなく学校生活や持っていたもの、とか、
    その人たちの“喜び”“悲しみ”・・・。
    そんな“その人”に触れることが少しはできたんだと想います。

    アンネがこんなにたくさんいたんだね・・・。
    ふとそんな風に感じて、気づいたんです。

    生き残ったアンネ・フランクがいる・・・と。

(つづく)

2006年12月18日

もう一人のアンネ・フランク(5) 

引き続き、青森出身のかなえさんからのメッセージを紹介します。

(第5回)

    衝撃的でした。
    アンネは終わっていなかったのに、
    何でその事に気づかなかったんだろう。

    失われた彼女の命に対して
    諦めの方が強くなっていた自分に気づき、
    悲しかったのです。
    自分はどうして止まってしまっていたのだろう・・・と。

    生き延びた元ひめゆり学徒の皆さん・・・
    語ってくれるアンネがいて、
    私はそこからもっとつないでいくことができるんだと知りました。

    自分の中で、
    「もしアンネが生きていたとしたら?」
    を想像する時、
    「小説家か女優さんになれたかもしれないのに・・・」と、
    彼女の“夢”を組み立てる事しかしていませんでした。
    でもそれは“戦後”のアンネ像ではなかったのです。
    もし彼女が生き延びた時、
    そこにどれだけの悲しみを抱えて生きていくのか、
    そこをちゃんと感じた事がなかった。

    「戦争は終わっていない」
    そういう言葉を初めて実感しました。
    戦争は実際起こった事実で、
    “悲しかった過去のお話”なんかではなくて、
    その事実は存在していく。
    体験した人たちの中では終わるものではない。
    戦後のアンネを元学徒の皆さんに重ねた時、
    私はもう一度、アンネに近づいた気がしました。

    生き延びた元ひめゆり学徒の皆さんから
    さしのべられた手。
    その手を通して、
    私はもう一度アンネ・フランクと手を繋げたような、
    そして自分自身の想いと
    手を繋げたような気がしました。

    それはすごく私に力を与えてくれて、
    とても嬉しかったです。

(つづく)

2006年12月19日

もう一人のアンネ・フランク(6) 

引き続き、青森出身のかなえさんからのメッセージを紹介します。

(第6回)

    私は沖縄を訪れるまで、
    知ることを恐れていました。
    でも、知る事は 力でした。

    知ったから背負うのではないし、
    知った後 
    何もできない自分の無力を嘆くということでもない。
    自分の足で立って背負える以上のことは
    結局背負えるわけではないし、
    “背負う”とか“肩をさしだす”とか、
    そんな大それた事の前に、
    まだ自分が強くなれるし、
    自分の手や足・・・“力”が強くなった時、
    今よりも多くを抱えたり運んだりできるようになる、
    というだけのこと。

    勢いや流れのようなものに乗っかって
    安易に掲げられた“平和”や“戦争反対”という、
    ひどくもろい言葉に自信を失くすより、
    言葉を理解して、自分のものとして話すことができる時、
    自分自身は一歩、願う方に進むのではないかなと
    想えるようになりました。

    そしてそれは「生きる」「死ぬ」「愛する」・・・
    「殺す」・・・
    そんな言葉1つ1つにも繋がってくる気がします。
    今、自殺する子供達のこととか、
    様々に人の手で奪われる命のことが
    多く問題になっているけれど、
    1人1人の中で抱くその言葉が、
    本来その言葉の持つ意味ほどに真実を
    持ち合わせていたなら、
    命という言葉、命そのものの力は、
    もう少したくましくなれるのではないかな、と。

    決してひとまとめにすべきことではないけれど、
    でも、そんな風に、
    知る事の大切さを想いました。

    私は“ひめゆり”の真実を知りませんでした。
    過去の真実も、現代までの真実も。

        (11/28のブログを受けて妹に確認したところ、
        私の妹(25)は戦争や平和の話をよく2人でしますが、
        でもひめゆりのこと、全くといっていい程知りませんでした。)

    戦争のこと、平和のこと、
    そういうものが知りつくされ、語りつくされ、
    それでもなお、人や国が戦争を起こす方向に近づいていくなら、
    希望を見つけるのは難しいです。

    でも、まだまだ、多くの人が
    真実を知らないのかもしれません。
    真実を受けとったら、受けとった人にとって、
    今よりもっとリアルな“平和”が浮き上がって
    見えてくるのではないかと想います。

    そこには可能性があるはずです。

    平和はもっともっと強くなる余地がある。
    私は自分自身にそれを感じたし、信じています。

(つづく。明日が最終回です)

2006年12月20日

もう一人のアンネ・フランク(7) 

青森出身のかなえさんからのメッセージ、今日が最後の部分です。

(第7回:最終回)

    映画“ひめゆり”、
    ひめゆりの事を知らなかった人達にも、
    1人でも多く届いたらいいなと願っています。

    この手紙を書いていて、
    こんなにもあなたは知らなかったの?と
    誰かに問われてしまいそうなほどの
    自分の無知を感じています。
    長くなった言葉の全部が皆さんの時間をさいて
    本当に読んでもらうべき言葉だったのか。
    ありきたりで余計なことも
    いくつかあったかもしれません。

    でも1つの例にでもなればと、
    自分の中に起きた事を(無知の事実さえ)
    伝えたかったです。

    ―― 元ひめゆり学徒の皆さん ――
    戦争を語るという痛みの作業・・・
    そのお話を頂く時、申し訳ない想いでいっぱいです。
    「何も辛い事、想い出さなくてもいいです。
    皆わかるんです、もう大丈夫、無理しないでね」
    そんな風に言えたら、
    そして安心してもらえる何かが見せられたら、
    どんなにかいいのに・・・。
    そして無知や未熟さが何度も
    皆さんを傷つけた事もあったと思います。
    今でもそう・・・そこにいる1人は私なのです。
    ごめんなさい。
    自分達の想像力、手繰り寄せる力、
    そういうものがもっと強かったらなぁ・・・。
    今はただ心して受けとっていきます。
    少しずつ強くなります。
    「大丈夫」という、その言葉に近づけるように、
    私にできることをちゃんとしていきます。

    ―― 柴田監督 ――
    夏にひめゆりを訪れた後、
    私は自分の想いを誰に伝えたらいいのか、
    わかりませんでした。
    ものを作る人だから、自分の力に変えて、
    絵や、作品、そういうものに表現できる事も何よりですが、
    でもやっぱり直接、元学徒の皆さんにも伝えたかったです。
    監督のブログをみて
    Coccoさんの想いが“おばぁたち”に届いたのは嬉しかったし、
    Coccoの風としてメールを送る若い人達の想いを
    柴田さんが繋いでくれていることも嬉しかったです。
    それぞれに感じながら・・・
    でも、ちゃんと伝え合うと力になります。
    風の吹く場所・・・
    監督のブログを見て、
    私もこうして手紙を書いて、
    それが私自身の力になりました。


    元ひめゆり学徒の皆さん、柴田監督、
    ひめゆり平和祈念資料館の皆さん、
    手紙を書いていて、途中、
    何度も何度も言いたかったです。
    でもいっぱいすぎて、変な文になっちゃうから、
    最後にしましたよ。
    ―― いっぱい いっぱい いっぱい
          ありがとうございます ―――

    お体 大切になさって下さい。
    たくさんの喜びと笑顔に、皆さんが包まれますように。

    ひめゆり平和祈念資料館
    ひめゆりの塔
    映画ひめゆり

    ここに込められた願いと祈りが、
    たくさんの人の平和の力となりますように。


2006年12月21日

絹の花柄のワンピース

昨日まで7回にわたって掲載させていただいた
青森出身のかなえさんからのメッセージ。


「もう一人のアンネ・フランク」というとらえ方は
僕も今までまったく気づかなかった。
ひめゆりのおばちゃんたちと一緒に
アンネ・フランクの家に行ったこともあるけど、
 (資料館リニューアル時に勉強のため)
僕の中でも、あの物語はあそこで終わっていた。
もしアンネが生きていたら・・・。
KMさんの考察はとても鋭いし深い。


また、「知ることは力でした」という言葉。
大切な指摘だと思う。


映画「ひめゆり」から感じて欲しいことも
戦争の具体的な知識を得ることではなく、
知る喜び、感じる力、見つめる力。
自分自身の存在と感性を信じる勇気。


かなえさん、ありがとうございました。


----------------------------------------------------------

きょう、青山ブックセンター(東京・表参道)の
『8.15 OKINAWA Cocco』発売記念写真展に行ってきた。
昨年8月15日に沖縄で行われたCoccoさんのコンサートを
撮影した写真などが展示されている。


印象に残ったことが2つある。


ひとつは、Coccoさんが舞台で
ひめゆりのおばちゃんたちについて語っているときの姿が
等身大で展示されていた。
眼に静かな決意をたたえた彼女の表情。
直接、語りかけられているようで、どきどきする。


もうひとつは、コンサート時の衣装が展示されていたこと。
白い花柄のワンピース。
シルクの丁寧に織られた美しい生地。
このスカートに「ひめゆりの風」が吹いたんだ!


ケース内に展示されている衣装は、
どこか中国シルクロードの数千年前の香りが漂う上品なものだけど、
Coccoさんが着ると、現代に命が甦る。
小さな身体に秘められた彼女の存在感の大きさを
改めて感じた。


この写真展は、12月25日(月曜)まで。

2006年12月23日

一歩前進

来年5月から予定している
東京・ポレポレ東中野での劇場公開、
一歩前進しました。

朝一回の上映、いわゆる「モーニングショー」だけでなく
夕方の時間まで、1日3~4回上映してもらえることになりました。

多くの方々が映画「ひめゆり」を観る会に
登録していただいたことも大きく後押ししてくれました。
皆さん、本当にありがとうございます。

期日はまだ確定していないけど、
6月23日、つまり沖縄戦が終結した
「慰霊の日」をはさんでの
4週間ということになりそうです。
5月末から6月末という線が強いです。

そこできちんとお客さんが入るようであれば
8月にも再度上映の可能性もあります。

劇場側としては、
公開実績のない監督の作品なので不安だろうけど、
大きく場を開いてくれようとしています。
僕としても、
この映画の存在を一人でも多くの人に知ってもらえるよう
努力したいと思います。

またポレポレ東中野の劇場の1Fは
ちょっとしたアートギャラリーになっているけれど、
その場を何らかの形で活用してはどうかとも
提案されています。
何が伝えられるのか、考えてみたいと思います。

皆さん、今後ともどうぞご支援よろしくお願いします。


2006年12月24日

小道具

ポスター、チラシのデザインの
ラストスパートに入っている。
デザイナーの市川千鶴子さんが
「風」にこだわって意匠してくれている。
「ひめゆりの風、Coccoの風」の「」だ。
素晴らしいポスターができそうだ。
あとほんの少しだけ手直しすれば
80点のものが120点にも200点にもなりそうで、
そのために
新たな撮影をしようということになった。

きょうは、追加撮影のための小道具調達に奔走。

家の大掃除を少し手伝ったが、
クリスマスらしいことは家族に何もしてあげられなかった。

ようやくこの時間になって、
長女へのクリスマス・プレゼントにと思って
KMさんの影響を受け、
「アンネの日記」を近くの書店に探しに行ったが
見つからなかった。

父親らしいことが何もしてあげられず
申し訳ない・・・。


2006年12月25日

映画評論家・村山匡一郎さんから

さきほど、映画評論家の村山匡一郎さんから
この映画についてのコメントが届いた。

村山さんは、内外の映画祭等で審査員やコーディネーターを務められ、
世界の映画人から厚い信望を得ている方だ。
11月27日の試写会に来てくださった。

そして、きょう、映画「ひめゆり」のチラシ掲載のために、
次のようなコメントを送って下さった。

    『ひめゆり』は、沖縄戦で犠牲になった
    「ひめゆり学徒隊」の生存者による証言が中心だ。
    今はのどかな表情を見せる昔の戦場を前にして
    紡がれる彼女たちの言葉は、
    たんなる歴史の解説と違って、
    見る者の想像力を強く刺激し、
    残酷で哀しい悲劇的出来事を再び蘇らせる。

    それらの緻密な証言を通して、
    刻一刻と追い詰められていく彼女たちの
    過酷な運命が見事に浮かび上がってくる
    稀有なドキュメンタリー映画である。  

とても嬉しいコメントだった。

正直言って、この映画は、
いわゆる普通のテレビのドキュメンタリーのように
日常生活に入り込んで行ったりしていない。
テレビのドキュメンタリーを見慣れている人には
「何、これ?」と思う人もいるはずだ。
「これが映画?」と・・・。


ある若いテレビ・ディレクターが数年前
ひめゆりの生存者を番組化しようとしたことがある。
彼は、撮影にあたって、
おばちゃんたちが家から足を引きずって歩いていく瞬間とか、
病気で入院している生存者を撮ろう努力した。
「今は年老いてしまった」ということを強調しようとしたのだ。

でも、おばちゃんたちは、嫌がった。

彼は善意で撮っていた。
「ひめゆり学徒も年老いた。
次の世代へ何らかのことを託さないとならない。
テレビを観ている人よ、
この人たち、かわいそうでしょう。
ぜひ共感してあげてほしい」
という気持ちだったのだろう。

でも、ひめゆりのおばちゃんたちは鋭い。
「利用され、誇張されたイメージを作られる」と察し、
この取材を嫌がった。
ひめゆりのおばちゃんたちは、
戦前は軍に利用され、
戦後は映画界に利用されて、
気づいたらすっかり虚像が出来上がってしまった、
そのことの痛みを抱えている。
だから、取材をする相手にはとてもシビアな目線を注ぐ。


テレビ番組を作っていると、
ついつい、自分が一段高い位置にいると勘違いし、
啓蒙的なモノの言い方になりがちだ。
「教えてあげる」というスタンスだ。
そして、自分の言いたいことを先に決めて
強調するカットを撮っていくことが多い。
短い取材期間で、ある種の「感動メッセージ」を伝えようとすると
そういう口調になってしまいがちなのはよく分かる。
僕も気をつけていないと、そうなりがちだ。

感情や雰囲気を映像で演出するのは簡単だ。
たとえば、
「おばぁが、ある薄暗い家の中にいて、逆光のシルエットで話している」
そんなシチュエーションを作って撮影してしまえば、
「人生の闇を抱えている」というイメージがすぐ出来てしまう。
また、たとえば、
「おばちゃんたちがゆっくりと歩いていく、
 カメラは低いアングルからじっと追う」
という撮り方をすれば、
「健気に時代に立ち向かっていく」
というイメージもすぐ作れる。

それは虚像だ。
何年かこの業界にいれば、誰でもできる。

映画「ひめゆり」は、そうした安易な虚像生産をしたくなかった。

だから、
おばちゃんたちに対して、同じ目線で正面からカメラを構えた。
見下ろすでもなく、見上げるでもなく、「目高」。
もっともシンプルなアングルだ。
 (シンプルは最も難しく、
  カメラマンの精神も技量も要求される。)
編集でも、おばちゃんたちの話を最大限生かすために、
証言と証言の間も
きわめてシンプルな映像でつないだ。

演出家不在、監督不在、
そのように見えることが望ましいと思った。
おばちゃんたちの映画であって
監督の映画ではない、
そうありたかった。

村山匡一郎さんは、このことをもっと強く感じ取って下さった。
そしてもっと深い意味づけをしてくれた。

    紡がれる彼女たちの言葉は、
    見る者の想像力を強く刺激し、
    残酷で哀しい悲劇的出来事を再び蘇らせる。

この映画は、観る人が
自らの想像力の中で作っていく映画である、というのだ。
おばちゃんたちの映画、
監督の映画、ということを超えて、
観る人が自らの想像力の中で映像を作っていく映画。
観る人が、カメラマンにもなり、出演者にもなり、監督にもなる。

それが成功していると村山さんは感じたのだろう。
    「稀有なドキュメンタリー映画である」
という言葉で結んで下さった。

手前味噌になるのでもう止めるけど
村山さん、ありがとうございました。


2006年12月27日

土本典昭監督から

土本典昭監督からお手紙をいただいた。
土本さんは1928年生まれ、
ひめゆり学徒隊の下級生たちと同い年。
日本のドキュメンタリー映画の世界を開拓してきた大先輩だ。


    長編にもかかわらず、ひめゆりの方々の数十日が
    手に取るように伝わり、
    全く長さを感じませんでした。

    同世代の証言者の、ひたむきな伝えたい気持も、
    落ちついた口調でたしかに伝わりました。

    実景や実写フィルムも話を生かすだけに限られ、
    ひきしまった映画になっていると思います。

    今日、はじめて記録するに価する「ひめゆり」が出来ましたことを
    心よりうれしく、また身のひきしまる想いです。

    どうぞキメの細かい上映をいつまでもつづけて下さい。
    同窓会のひめゆりの方々にもよろしくおつたえの程をー。 


土本典昭さんは、『水俣―患者さんとその世界―』(1971年)
という作品で世界的によく知られている。
土本さんの作品を通して、水俣病は広く知られるようになった。
土本さんは、今も水俣病の患者さんたちと向き合いつづけ、
刺激的な作品を発表されている。
「身のひきしまる想いです」という土本さんの言葉には
現役の映画作家としての気概がにじみ出ている。

ずっと見つめ続けている記録者としての責任感。
土本さんから学ぶことは多い。
ありがとうございました。

2006年12月29日

富山県のJSさんへ

「『ひめゆり』の自主上映をしたい、
来年の6月23日の慰霊の日(沖縄戦終結の日)に地元富山で開催したい」
そんなお電話をいただいてから4ヶ月になります。
自主上映会についての初めてのお問合せだったので
スタッフ全員とても励まされました。

その後、あなたから言われました。
「地元の中学や高校に協力を呼びかけるために
 教育委員会に出向いたが、
 戦争や平和というテーマを扱うというだけで嫌な顔をされる」
と。

今や、教育の行政を司る人たちは、
戦争の実相など伝えることを避けようとしているのかもしれません。
広島県の学校でも、
原爆体験者の話を聞くことを総合教育の一環に入れようとしても
県の教育委員会から間接的に反対されるとききます。
直接ダメだと言わず、
それよりも大切なカリキュラムがあり時間がいっぱいだと指示され
実現することは難しいと・・・。
広島市内だけが辛うじて、体験者の話を聞くことを
学校教育の中でできるのだそうです。


あなたからの要請もあり、
「文部科学省選定」というお墨付きを得る努力をしました。

時間がかかりました。
審査にかけてもらうことがたいへんでした。
フィルムを文科省に預けましたが
「いつ審査にかけるか分からない」と言われ続けました。
いろいろな方のご助力があり、
ようやく、今月半ばに審査にかけてくれ
今週に入って「選定決定」の通知が届きました。

これで、教育委員会や学校関係者の方々も
安心して協力していただけるはずです。

ということで、
富山での自主上映会の成功に向けて
ご一緒に頑張って参りたいと思います。

どうぞよろしくお願いいたします。


--(参考資料)---------------------------------


以下、「教育映像等審査規程」
(昭和二十九年文部省令第二十二号)より。

第四条  審査は、申請された映像作品等のもつ教育上の価値を主とし、次に掲げる基準に従つて行う。
一  内容について
イ  正確なものであるか。
ロ  信頼できるものであるか。
ハ  時代の進歩に応じているものであるか。
ニ  心身の発達段階に応じて理解しうるものであるか。
ホ  生活、経験及び興味に即しているものであるか。
ヘ  経験領域を拡充し、豊かにするものであるか。
ト  思考力及び批判力をかん養するものであるか。
チ  教養を高め、生活の向上に資するものであるか。
リ  豊かな情操を養うものであるか。
ヌ  倫理性を高めるものであるか。
ル  学校教育用教材については、幼稚園教育要領又は学習指導要領に示されている教育課程に対する配慮がなされているか。


二  表現について
イ  意図しているものが表現されているか。
ロ  画面が鮮明であるか。
ハ  色彩が適切であるか。
ニ  用語が平易かつ妥当であるか。
ホ  解説に頼りすぎていないか。
ヘ  解説と画面の結合が適切であるか。
ト  録音が適切であるか。
チ  紙芝居にあつては、紙質及び印刷が適切であるか。


三  その他
イ  操作が容易であるか。
ロ  スライドにあつては、指導書又は解説書が適切であるか。


第五条  映像作品等の審査にあたつては、前条に規定するもののほか、次の各号に掲げる事項についても留意するものとする。
一  風教上好ましくないものではないか。
二  商業的又は政治的な宣伝意図の顕著なものではないか。
三  安易な模倣を誘発し、社会的悪影響を及ぼすおそれのあるものではないか。
四  その他中正を欠く意図が感じられるものではないか。

2007年1月 5日

年末年始にいただいたメッセージから(1)

年末年始の間にいただいていた
メールや日記へのコメントから、
ピックアップして紹介します。


北海道小樽市のAKさん(30)。
(11月10日の日記で紹介)

ひめゆりの塔の前まで何度も足を運びながら
資料館には入れないということが続いていたが
去年10月、ようやく一歩を踏み出せた。

年賀状に、可愛らしい手作りの切り絵で作った
イノシシ君たちのバンドのイラストを送ってくれた。
コメントが添えられていた。


    映画「ひめゆり」が多くの人と
    出会う事を願っています。

    風を受けて、わずかですが
    舟が前へ進むことができました。
    自分の力で漕いで、
    進めそうな気がしています。


ありがとうございます。


ちなみに僕は、小学校6年の10月から卒業時まで
札幌で過ごした。
短い期間だったけど、北海道の風景は
脳裏に鮮やかに焼きついている。


小樽にも何度か行ったことがある。
30年も前だけど。
AKさんは小樽の冷たい冬をどんな風に過ごしているのだろう。
  (中山美穂主演の映画「Love Letter」も好きで
   小樽というとその風景も連想します)


とにかく、互いに頑張って生きていきましょう。

2007年1月 6日

年末年始にいただいたメッセージから(2)

年末年始にいただいたメッセージから。(その2)


沖縄に移住して紅型(びんがた)の修行をしている
鳥取出身のTNさん(25)。
(12月9日の日記で紹介)


あの頃、修行を続けるという強い決意の裏で、
実は、
本土出身の人間でありながら
紅型という沖縄伝統工芸にどう向き合うか
悩んでいた。


暮れに、ひとつの作品を完成させた。
突然の癌に倒れ闘病生活を送る親友への
祈りを込めてデザインした図柄。
これをきっかけに、大きな変化があったという。


    紅型の作品の方も…今回の作品を作って
    自分のしたいことが見えたような気がしたんです。
    やっていくと、分かってくるものなんですね…★


これからも迷いがあるだろうけど、
互いに初心を忘れずに頑張りましょう。


柴田、8日夜まで東京を離れ、パソコンなどを見れません。
  その間、日記もお休みになります。 どうぞよろしくお願いいたします。

2007年1月 8日

年末年始にいただいたメッセージから(3)

年末年始にいただいたメッセージから。(その3)

神奈川県の早紀さん(27)。
(11月9日の日記で紹介)


12月末に10年ぶりにひめゆりを訪れた。


    17歳のわたし、27歳のわたしの目で見たひめゆりは、
    違うものでした。
    17歳の時は同世代の女の子達がこんな目に合っていたなんて・・・
    想像を絶するばかりでした。
    27歳のわたしは、この起きた事実を受け止め、伝えていこうと思いました。
    自分に今出来ることを考えました。


早紀さんは、高校生時代に話をしてくれたひめゆりの宮城喜久子さんに
再会することができた。
沖縄から戻ってから、「繋がり」ということを考えるようになったという。


    「繋がり」という言葉が自然に出てきたのです。
    本当に沖縄へ行ってその直後に書いた詩でした。
    人と人とは繋がっていてそして、いつか大きなものになって
    この世界が変ってゆけると信じています。
    わたしひとりでは出来ない事でも、人が繋がり合えば、
    不可能な事も可能になると本当に感じました。


「生きる」ことは自分だけで生きるのではなく、
他者から「生かされている」ということ。
早紀さんは強くやさしくなったことだろう。

2007年1月 9日

年末年始にいただいたメッセージから(4)

年末年始にいただいたメッセージやコメントから。(その4)


青森出身のかなえさん。
「もう一人のアンネ・フランク」を送ってくれた方です。
彼女が12月29日の「富山県のJSさんへ」に寄せてくれた
コメントを抜粋して再録します。


    見る側の想像力を必要とするのって
    やっぱりずごく大事なことに思います。
    見る側の想像力に任せると伝わることは計りにくいけれど、
    たとえば日常生活で扉を開けて建物に入るとき
    後ろに誰かいないかな…(お年寄りとか乳母車を押したお母さんとか)って、
    考えられる小さな想像力こそ
    平和にとって基本的で大切な力と思います。

    小さな想像力も働かせていろんな感じ方で受け止めたことを
    人と話し合ったりできれば新しい想像力も広がるし
    等身大の自分の想像力で向き合える映画であれば、
    一度ではなく一年後、二年後にまた見て気づくことも多いと思います。
    そのときの自分の想像力が何かを見つけるということだから。
 

この映画、「一年上映して終わり」にならないようにしたいと
ずっと思っていた。
そんな僕らの思いに、
嬉しい励ましの言葉をありがとう。

2007年1月10日

ポスターのデザイン固まる

映画のポスターのデザイン・イメージが固まりました。




まだラフなので拡大はできませんが、こんな感じです。

デザイナーの市川千鶴子さんが「風」にこだわって作り上げたグラフィック。
市川さんの言葉を再録します。


    私が気になっているのは、監督がブログで使っていた
    「ひめゆりの風 Coccoの風」の「風」という言葉。

    ひめゆりの方々だけでなく
    沖縄の大地と空と海も戦争の証言者ではないか。
    海岸の岩の間を、皆の想いのこもったが、
    今も吹いているのではないか。

    Coccoの言う「スカートの裾にふく風=ひめゆりの風」だとしたら
    その風はとてもやさしい生きる人を励ますようななのではないか。
    風が表現できるといいな、と考えています。

    あと、沖縄の空や海は特別の色なので、
    その鮮やかさを出したいです。


画面の中の少女は、現代の少女でもあり、過去の少女でもあり、
それが重なり合う姿としてイメージを作りました。
映画の中でも1カット登場します。


「『忘れたいこと』を話してくれてありがとう」
この言葉は、Coccoさんの『想い事。』にあった言葉です。
また、皆さんから寄せられたたくさんのメッセージにも
同じような言葉がありました。
若い世代から、ひめゆりのおばちゃんたちに対しての
もっとも美しい、優しい言葉だと思います。


皆さんのおかげで、ようやく上映に向けて
少しずつ準備が整いつつあります。
本当にありがとうございます。


今後、さまざまな調整を経て、
チラシの第一刷が2月初旬に上がる予定です。


チラシを配ってくださる方、
「こういう場所に置けば皆が興味を持ってもらえるのではないか」というアイデアのある方、
もしいらしたら、どうかご連絡ください。
よろしくお願いします。

2007年1月12日

街頭インタ顛末記

17年ぶりだった。
僕が最後に街角インタビューをしたのが1990年だったから、
本当に久しぶりにこんな撮影をした。
SKさん、すなわち早紀さんが来てくれて良かった。
手本を示そうと僕が若い高校生たちに声をかけても
皆、怖がって逃げる、逃げる。
早紀さんが言う、「柴田さん、それじゃ変な人にしか見えません」
やはり40過ぎのおじさんでは街頭インタビューは無理だった!


原宿駅で14:30に待ち合わせ。
SKさん、川口カメラマン、そして
岩田三四郎君という28歳の若手ディレクターも手伝いに来てくれた。
岩田君は3年前にひめゆり資料館の第二展示室の映像編集を手伝ってくれた人で
今は中国政府から奨学金をもらって北京映画学院に留学中。
たまたま一時帰国したところを昨晩僕につかまってしまった。


早紀さんは、たぶん、ものすごく緊張して来たのだろう。
最初は表情も硬く、
前の晩あまり眠れなかった様子だった。


それにしてもSKさんは勇気がある。
インタビューやったことないのに、次々と声をかけてくれる。
断られてもヘコタレナイ。
やりながら、だんだん調子が出てきた。


渋谷では、若い人たちの警戒心が強くて
8割方は逃げられてしまったけど、
原宿では比較的多くの人たちがインタビューに応じてくれた。


(早紀)「すみません、インタビューに協力してください。
    ひめゆりって知っていますか?」」
(ほとんどの若い人)「知らない」
(早紀)「ぜんぜん聞いたことないですか?」


若い人の中には、しばらくしてから、
「あ、ひめゆりの塔のひめゆり?」
と答える人もいる。


(早紀)「そうです。どんなイメージがありますか?」


ここまで来ると、答えは千差万別。
(例1)「沖縄の、何か手伝った人でしょう?」
(例2)「花の名前?」
(例3)「悲しい」
(例4)「サークル?」
(例5)「お城のような・・・・」(意味不明)


(早紀)「学校では習いませんでしたか?」
(ほとんどの人)「習わない」


(早紀)「沖縄で戦争あったの知ってますか?」
(ほとんどの人)「知ってます」
(早紀)「どう思いますか?」
(例1)「うーん(無言)」
(例2)「あっちの人に聞いてください」
(例3)「関係ない」


(早紀)「今自分たちが戦争に巻き込まれたらって考えることありますか」
(ほとんどの人)「いや、それはないです」


夜、撮影が終ってラーメン屋へ。
僕と川口君が、おしぼりで顔を拭くと、
早紀さん、にこにこ笑う。
「二人とも顔を拭くんですね」
そうなんです、僕ら、この仕事の人間は
要は土方作業員なんです・・・・。
徹夜が続いて風呂に何日も入らないことも
ごく日常なので・・・・。


というような訳で、
無事、撮影は終った。
ひめゆりの名は知っていても
何を意味するかを知っている人には
ほとんど出会わなかった。


でも、これからこの映画を上映していきながら
一人でも多くの人たちに知ってもらおう。
そういうファイトが沸いてきた。


早紀さんは「当たって砕けろ」という思いで来たという。
大丈夫、砕けてなんかいない。
あなたの粘り強さから、僕も大きなエネルギーをもらった。
質問もしっかりしていた。
本当に、ありがとうございました。


予告編、2月初旬には編集が上がるはずです。
完成したら、ホームページ上でも公開します。
乞うご期待を。

2007年1月13日

イニシャル表記と実名表記について

これまで、お寄せいただいたメッセージを
「監督日記」に掲載するとき、
基本的にはイニシャル表記にしてきました。


なぜかというと、
ネットの世界では、誰が読むか分からない、
中には悪質な人がいるかもしれません。
特に怖いのが、政治団体系・右翼系の人からの攻撃。
この映画は政治的にはまったく中立だけど、
戦争と平和のことを扱うだけでけしからんという
考えを持つ人も世の中にはいます。
嫌がらせのメールが行くと嫌でしょう?


これまでは直接お会いする機会があり、
この人ならどんな言論にさらされても大丈夫と判断した人
(僕のこれまでの友人も含む)は
実名表記をしました。


ただ、僕の少し考え方も少しずつ変わってきています。


このブログの場を介して、
これから多くの人たちが繋がっていくためには
イニシャル表記だけというのもどうかな・・・と。
若い皆さんは、僕が思っている以上に
しっかりして、強いんだということも
分かってきました。


そこで、神奈川県のSKさんは、ご本人の希望で
「早紀」という本名表記に変更しました。
姓名までは躊躇されるというので
名だけを表記しています。


名前表記のことで、もしご希望のある方がいれば
おっしゃってください。
過去に遡って訂正することもできるので、
遠慮なく言ってください。
ただ、ニックネームは無しで、
基本的には、本名かイニシャルかにさせてください。


こうは書いたものの、
僕自身がネットの世界をあまり知らないし、
ブログも初めてなので、
本当にこれで良いのか、判断しかねているところもあります。
今後、また方針変更するかもしれませんが、
どうぞご理解ください。

2007年1月14日

インタビュアーになった早紀さんより

街頭インタビューをやってくれた早紀さんから
感想が送られてきました。

-----------------------------------------------------------


柴田監督へ。

昨日はありがとうございました。
わたしなんかのド素人にしては、
「メディアの世界」っていうのを体験でき、
また自分の度胸にもまたびっくりする限りでした。
監督さんは想像しているよりもお優しい方で、そしておちゃめだなぁって
勝手に思ってしまいました。


そして、何気なくいつも観ているテレビ、映画などの裏話は(綺麗な?)
よく観る事だけど、裏ではこんな苦労、時間をかけているだなんて
やっぱり想像は出来ないものですね。
インタビューひとつ撮るにしてもあんなに時間がかかるんですから
テレビの大規模なインタビューなんて果てしないことですね。
何気なく観ているけど製作者側の苦労を少しはわかった気がします。


中学生の時に1回インタビューを受けた事があります。
山田かまちという17歳で亡くなって、死後彼の書いた詩、絵などが見つかり、
それで群馬の高崎に美術館が建ったくらいになりました。
山田かまちがわたしの原点の人です。
巡回展などしていて、その個展に行った時に
生放送でインタビューをしてくださいって言われてやったことがあります。
でもCMあけに君たちにインタビューするから自然な感じで
振り向いてからとか打ち合わせしてからインタビューを受けた事を思い出しました。


監督ブログ読ませていただきました。
わたしとしては何も問題はありません。
ひとつは前の日にはよく眠れました(笑)


昨日は本当にいい体験ができましたし、
何よりも本当に少しですが、
映画が作られるまでの監督含め、スタッフの皆さんの熱意、
ご苦労などを感じることが出来た事、
これからも何かわたしにお手伝いが出来ることがあればさせていただきます。


「当たって砕けろ!」精神って本当にすごいパワーがうまれますね。
自分で思っている以上にその精神のパワーが出ました。


実は人混みが大嫌いなわたしでしたが、
昨日はそれを感じないくらいに集中し、取り組めました。
今日、朝起きたら
やっぱり歩き回っていただけのことはあって疲れが出てきましたが、
それはとても心地いい疲れでした。


予告編楽しみにしています。


早紀より。


-----------------------------------------------------------


ちなみに、早紀さんは詩を書く人で
自分のブログに自作の詩や折々の思いを掲載しています。

http://ameblo.jp/saki-lotta/


2007年1月25日

うない

琉球新報発行の生活マガジン「うない」に
Coccoさんのインタビューが掲載されていることは
映画「ひめゆり」のHPの新着情報でご紹介している。


だけど、ほとんどの人が
この冊子を読めないでいると思う。
沖縄在住のTNさんですら
琉球新報を購読しているにもかかわらず
まだ入手できていないという。


そこで、著作権の関係で全文引用は控えるけど、
「うない」の中の、映画「ひめゆり」についての部分のみを
皆さんにお伝えしたい。


--------(琉球新報「うない」2007年1,2月号より一部抜粋)---------------------------

――沖縄でのライブは、演奏も素晴らしくて、とても印象的でしたが、MC(曲の間の語り)で、「ゴミゼロ」のことや、ひめゆりの塔に行ってCoccoさん自身が思ったことをしっかりと語っていたのも非常に印象的でした。
「でもね、沖縄のライブの直前だけ、すごく体調が悪くなったの。それまでとても充実したツアーをやっていて、どんどん体調がよくなって声がどんどん出ていたんだけど。沖縄のコンサートの前日から体がとても重くなって、リハーサルでも全然声が出ないし、涙が出てきて。なんか、すごく意識ははっきりしてるんだけど、体が自分じゃないみたいな感じで、一体なんでなんだろう?って思っていて。だけど、いざ始まってステージに出たら、とても速く走れて、声もすごく出て、びっくりした。なんか、すごい不思議だった。沖縄でやるっていうのは自分の中で想像以上に重かったんだと思った。
 それで、コンサートの前にすごく久しぶりにひめゆりの塔へ行ったから、ステージでひめゆりの話をしたけど、その時に、すごい風が吹いて。その風がスカートの中でめぐって舞い上がっていったの。そのときに、『ああ、だからあんなに重かったんだ』と思った。何か、この浄化のためだったんじゃないかっていうことを感じた。
 そうしたら、その後に縁があって『ひめゆり』という13年かけて撮り続けたっていう、ドキュメンタリー映画のコメントを書いて欲しいっていう依頼が来て。それを、今、連載している毎日新聞のコラムで書いたら、そのことでまた人と人が出会ったり、どんどん繋がっている感じがして・・・・・・。だから、そうやって、結局、全部が繋がっていったから。あの時のライブはほんとうに貴重な体験をさせてもらったんだと思う」
「『ひめゆり』のドキュメンタリー映画を見ても思ったんだけど、とんでもなく大変な思いをして生き残ったのに、おばあたちは『生き残ってしまった』と思っているのね。だから、そのおばあたちが生きている間に、一瞬でもいいから『生き残ってよかった』『勇気を出して証言してよかった』と思ってほしい。自分たちが生き残ったから、子供たちも生まれて、現在があって、こういう結果がちゃんと生まれたっていうことを何かの形で見せたい。そのために、全国の一人でも多くの人に、この事実を知ってほしい。
 それは、『ひめゆり』の映画を一人でも多くの人に観てもらうことだと思うし、そして、歌を歌っている自分にできることは、おばあたちに喜んでもらえるような歌を、たくさんの人に届くように歌うことだと思っている」
(インタビュー 長嶺陽子)


---------------------------------------------

「うない」は2ヶ月に1度、偶数月月末の発行。
琉球新報の購読家庭に販売店から届けている
A5版オールカラーの「生活マガジン」。

このインタビュー記事を読んで、
Coccoさんが今夏、沖縄で歌ったことの重みと喜びが
とてもよく理解できた。
彼女が生きていくときの
すごく前向きなエネルギーも感じた。
ぜひ以下に問い合わせて、全文を読んでみることをお勧めします。

冊子「うない」についての問合せは
琉球新報社販売局販売企画部
電話: 098-865-5111(代)


2007年1月26日

再び千葉県のHNさんから

愚痴をこぼすようで恥ずかしいが、
余りに忙しくて寝る時間もなく、
ブログへの書き込みも途絶えがち。
そんな中でも、多くの方々からメッセージをいただき
とても心動かされています。


これからしばらく、
最近いただいたメッセージを紹介していきます。


まずは、千葉県のHNさん(21)からのお便り。
以前いただいたメッセージは、11月28日のブログに
掲載させていただきました。


------------------------------------------------


    わたしは、現在心の病気と闘っています。
    実際、今のわたしの中からは「生きたい!」という
    強い想いはありません。
    Coccoに出逢い「もう少し頑張ってみよう」と
    力をもらっている状況です。


    以前募集していた街頭インタビュアー、
    本当は挑戦してみようかと迷いました。
    でもきっとそれは、今のわたしにとっては
    そびえるほどの高いハードルに変わりはなく。
    それにインタビュアーなら、
    きちんとひめゆりの歴史についてや
    沖縄の人の想い・・・他人の感覚、意見など
    きちんと受け止められないと勤まらないと思い
    自粛しました。


    なにより「生きること」「死ぬこと」とは何なのか・・・
    それをまだ理解出来ていないわたしが
    他者にたいして「ひめゆり」とは何か?と
    訊ねる事は失礼だと想い、断念致しました。


    こんなに素晴らしい作品に携さわれなかったこと、
    将来のわたしはきっと後悔することと想います(笑
    でも、これが今のわたしに出来るすべてであり、想いです。
    この想いが監督にもスタッフさんにも、作品にも・・・
    もちろんおばぁたちにも少しでも伝わってくれればと
    願っています。


    お話が変わりますが・・・
    ポスターのデザイン、とても心惹かれました。
    すべてを包むような、許してくれるような沖縄の風を感じたからです。
    Coccoの感じた風、柴田監督の感じた風、
    この作品に携わった人全てが感じた風。
    そのすべてが、此処にあるのですね。
    そしてポスターに書かれている一文。

 
      「忘れたいこと」を話してくれてありがとう


    なぜがこのポスターを見たとき、涙が止まりませんでした。
    悲しいわけでも、切ないわけでもなく・・・余りにも優し過ぎて。


    「忘れたいこと」を話してくれた、おばぁたちに
    伝えきれない感謝の想いでいっぱいです。
    心から溢れる「ありがとう」と「ごめんなさい」を伝えたいです。


    前夜祭の3/23「ひめゆり」特別先行上映会に
    出来る事なら参加したいのですが、
    金銭的に残念ながら行けそうにはありません(笑;
    出来る事なら、沖縄の土地でこの作品を見たかったです。


2007年1月27日

埼玉県のTSさんから

きょうは埼玉県のTSさん(27)からのメッセージです。


    私は今、27歳ですが、10代の頃から、
    あまり自分でも理由は分からないのですが、
    広島そして長崎について強い想いがありました。


    といっても、周りに被爆者がいるわけでも、
    広島や長崎に親戚がいるわけでもない私に
    できることといえば、
    本を読み写真集やドキュメントを見ることだけでした。
    それでも、体験者ではない自分の中に
    原爆の記憶が生まれた気がした昨夏、
    ひとり広島を訪れました。

    いつの頃からか、
    広島や長崎について触れると
    その先に沖縄を考えずにはいられなくなりました。


    広島や長崎の延長線にあっても、
    明らかに沖縄は遠かったです。
    ヤマトの人間という負い目なのかもしれません。
    広島や長崎のように、
    なんの罪もない被害者という側から
    見ることができないです。


    でもきっと、あまり時を
    待つこともできなくなるんですね。
    この間ある新聞のコラムに
    こんなことが書いてありました。


    ある国では、人の死には二通りあるそうです。
    一つは身体的な死。
    もう一つは、その人を知っているひとが絶えたとき。
    人の記憶から消えたとき、その人は本当に死ぬそうです。


    私達にはまだ、事実を残すチャンスがあるんですね。
    ひめゆりを含む沖縄戦に
    ウチナーの人と同じ想いでいることはできないかもしれない。
    後ろめたいままかもしれない。
    それでも叶うなら、
    私に持てる限りの記憶を与えてほしいと思います。


    その一歩が東京での上映になりますよう。
    私の想いだけでごめんなさい。
    名も知らない人たちが繋がりますように。

2007年1月28日

兵庫県のHFさんから

兵庫県のHFさん(20)からのメッセージです。


    母が沖縄生まれで、私自身も沖縄で生まれた事もあり、
    沖縄への関心は、以前から高かったです。
    でも、それでもひめゆりの塔へは行ったことがありませんでした。
    何度か沖縄へは行き、一般に観光地と呼ばれる場所へは行きました。
    でも、ひめゆりの塔へは一度も中へ入ったことはありません。
    それは、恐いと思ったからです。
    授業やTV、映画などで見る戦争でもとても恐いのに、
    人がたくさんなくなった場所へは、どうしても行く事ができませんでした。


    でも最近になってようやく戦争映画なども
    目を反らさずに見る事が出来るようになりました。
    自分が歳を重ね、理解できる事が増えたのも
    その原因のひとつだと思います。
    でもそれ以上に、その事実を知らない自分を情けなく思ったからです。


    これまでにも何度か足を運んでいる土地。沖縄。
    私は、勝手に沖縄の事を故郷だと思っていて
    (生まれたとはいえ殆ど沖縄には住んでいないのです)、
    行く度に「観光客とは違う!」と思っていました。
    でも、そのくせに沖縄のことをほとんど知らない自分を情けなく思います。


    Coccoが語る沖縄。
    ひめゆりのこと、海のこと、基地のこと・・・
    どれ一つとして、私はろくに知らないのです。
    全部が、ニュースの中、教科書の中のことだと漠然と思っていたのです。


    私ひとりに何かが出来る、なんて事は思わないけど、
    知ることは出来ると思います。


    過去や、今現在何があって、どういう人たちが頑張っているのか。
    なにより私は、知りたいと思いました。


    沖縄のライブでCoccoがひめゆりの事を話してくれたのも聞きました。
    今度、沖縄を訪れたときは、私も絶対にひめゆりにも行こうと思います。


    話は変わるのですが、私は今、専門学校で働いています。
    それで、チラシの配布に協力したいと思ったのです。
    これは私個人が思っているだけで、まだ学校側には話していないし、
    置いてもらえるかわからないのですが、
    いくらかでもチラシを送って頂けたら、
    学校に置いてもらえるようにお願いしてみようと思います。
    若い世代の人たちに、一人でも多くの人に知ってもらえるように、
    私も何か力になりたいです。


    Coccoのコラムが掲載されてから随分経ちました。
    監督さんのブログや、他の方の言葉を見ていて
    どうしても私の思いをお伝えしたくなりました。
    支離滅裂だし、自分でもうまくいえないのですが、
    今の私がまず出来る事は、知ることだと思います。


    ひとつずつでも、何か出来る事から始めたいと思います。

2007年1月29日

神奈川県のYKさんから

神奈川県のYKさん(34)からのメッセージです。


    私はひめゆりを始めとした女子学徒隊に強い関心を持ち、
    沖縄に何度も行っています。    
    きっかけは、5年前の7月に
    友人と初めて沖縄旅行した時、
    旅行の最終日にひめゆり平和祈念資料館を訪れた事です。


    私にとって沖縄は、綺麗な海と空、サトウキビ畑、
    独特の琉球文化、料理etc・・・とても素敵な所だと思ってました。


    資料館を訪れるまでは・・・。


    ひめゆりの塔にお参り、献花し、資料館に入って
    今までの沖縄のイメージが一掃されてしまいました。


    沢山の女学生達の遺影、どのように亡くなったのか・・・
    今まで何も知らなくてごめんなさい、と思わずにいられませんでした。
    しばらく夜も眠れないくらい、
    ひめゆりの女学生達の事が忘れられず、
    と同時に女子学徒隊達の事を知りたい!
    と言う気持ちが強くなりました。


    ひめゆり学徒隊だった宮良ルリさん、宮城喜久子さん、
    伊波園子さん、引率教師だった仲宗根政善先生etc・・・の
    著書やインターネットでの検索。
    2年程自分なりに知識を得たと思い、
    去年の8月に再び沖縄を訪れ
    平和ガイドさんの案内でひめゆりに関わる戦跡巡りをしました。


    そしてお会いしたかった宮良ルリさんに
    あの6月18日の第三外科壕の悲劇を
    直接お聴きする事が出来ました。


    宮良さんはお話を終えると、
    「有難うございました」と。
    お礼を言わなくてはならないのは私達の方なのに!
    ご自分の辛い体験をお話して下さる語り部の方々には
    本当に感謝の気持ちで一杯です。


    私の沖縄の旅は、これからも続きます。

2007年1月30日

神奈川県のSTさんから

神奈川県のSTさん(25)からのメッセージです。


    先月、沖縄旅行に行き、戦跡などを見てきました。
    今回沖縄に行くのは3回目なのですが、
    1回目の時はまだ、興味を持っていなかった。
    ひめゆり資料館は有料だったので、
    友人と二人で極貧旅行中、入ろうかどうか悩んで、
    結局入りませんでした。


    2回目は、昨年の8月15日に
    Coccoの沖縄コンサートに訪れました。
    そこで彼女がひめゆり資料館の事を話していたので、
    ぜひとも行ってみたいと思いました。
    彼女の話す事が、ひとつひとつ、心に残りました。
    戦争・平和など、重い話が苦手な彼氏が、
    Coccoの話を聞いて、ひめゆりに興味を持ったようでした。
    私が話すと苦い顔して逃げてしまうのに。
    すごい!と思いました。


    そして今回、12月6~9日にかけて、
    平和の旅ツアーに参加しました。
    3回目にして、ようやく資料館を訪れることができました。


    順路に沿って進むと、
    ひめゆり学徒隊の生存している方の
    証言映像が上映されていました。
    その方はきれいな海岸で腰掛けながら、
    カメラに向かって当時の話をしていました。
    そのときは死体がいくつも転がっていて、
    血で川のようになっていたと…。
    この話を聞いて、私は心を打たれて、
    胸が詰まるような思いでした。
    背景に写っている海岸線は、海も空もとても美しく、
    美しいからこそ、余計に悲しさがこみ上げてきます。


    残酷さを伝えるのに、残酷な映像を伝える必要があるのか?
    私はしばしば考えます。
    今の時代、本当に戦争というものが分からない。
    だからこそ、時には残酷さを伝える手段としては必要なのかもしれない。
    でも、心から平和であって欲しい、そう願うのは、
    美しいものに対峙している時だったり、
    幸せを感じている時なのではないかと思います。
    沖縄は、空も海も美しいからこそ、
    悲惨な戦争があった事実とのコントラストに衝撃を覚えます。


    後日こうやって思い直してみると、
    次世代への継承がどれほど難しく、すごい事なんだろうと思いました。
    声高に平和を叫ぶよりも、じわじわと訴えかける方が、
    ずっと人々の心に染み入る何かを残してくれると思いました。
    (映画「ひめゆり」も、じわじわ系なのでしょうか?w)


    話は反れますが、沖縄に行く前に、
    靖国神社に併設されている遊就館も観てきました。
    戦争を正当化している展示や、
    戦争はやむをえない事だったと責任転嫁している解説。
    戦況の解説映像は、日本軍が勝ち進んでいた頃ばかりを取り上げ、
    何も考えずに見ていたら
    「ほー日本軍すごいなー」と思わされてしまいそうでした。


    飛行機や特攻機、大砲も展示されていました。
    観ている最中は意識高揚、見終わった後はとくに後味は残らず・・・。
    沖縄で見た展示や、ガマを見終わった後は、
    胸に何かつかえたかのように重い気持ちになったのに。
    この後味の違いに、どうしても違和感を感じずにはいられません。


    今回は、平和をテーマにした、内容が濃厚なツアーでしたので、
    抱えきれないくらいの衝撃を受けました。


    一番もどかしい事は、
    帰ってきてもこの話をする相手が、なかなか身近にいないことです。
    「平和」という重いテーマは、なかなか切り出しにくいし、
    話をする時もトーンダウンしてしまいます。
    本当は、誰かに聞いてもらいたくて、うずうずしていたのです。


    何かしないと、何も始まらない。
    そう思い、勇気を出して柴田監督にメールを送らせて頂いた次第です。


2011年3月 8日

こっこちゃん ありがとう!


こっこちゃん ありがとう!

http://www.cocco.co.jp/blog/index201103_all.html

2011年6月13日

絶望と廃墟からの復興


6月23日をご存知だろうか?
今から66年前、たくさんの命を犠牲にした沖縄戦で
組織的な戦いが終結した日だ。
沖縄では今もこの日に
平和を願う慰霊祭が各地で行われる。


僕たち、プロダクション・エイシアとポレポレ東中野は、
毎年6月23日に、「ひめゆり」の上映を行っている。
映画「ひめゆり」は、絶望の中を生き延び、
戦後は自らのつらい記憶と向き合った
生存者の方々の凛とした語りを通して
人間の尊厳を伝える作品。
この映像作品は、3.11で津波に流された町・村の姿、
そしてそこから復興しようという方々とも
重なるところがあると思う。


まだご覧になっていない方は、この機会にぜひ。


◆    ◇  (以下、上映情報)   ◇    ◆  


●6月23日(木) & 6月24日(金)
 場所: 東京・ポレポレ東中野
 上映時間: 両日ともに 20:50~ (23:00終了)
 前売券: 1000円 (当日料金1500円)
 前売券は、劇場窓口、チケットぴあ(Pコード 557-835)にて発売中。
  (日時を指定した前売券)

   ※定員に達し次第チケット販売を締め切ります。


●その他、千葉県君津市(6月25日)、長崎県長崎市(6月26日)でも、
 上映があります。


 詳しくは、映画「ひめゆり」公式HPを。
 http://www.himeyuri.info

2011年6月20日

かなえさんから 久しぶりに


「ひめゆり」の看板娘の長女で、
百年プロジェクト」などを企画・実行してきてくれた かなえさん から
久しぶりにメールが届いた。


かなえさん、このブログにはたびたび登場したが、
知らない方は、まずこちらをお読みください。
http://www.himeyuri.info/kantoku_blog/2006/12/km_01.html


かなえさんは青森県二戸出身だが、幸い実家は震災を免れたという。
ご本人の承諾を得たので、ぜひご紹介させていただきたい。


~  ◆  ~  ◇  ~  ◆  ~  ◇  ~  ◆


    23日、沖縄慰霊の日が近づいてきましたね
    23日はポレポレにうかがいますね。

    3月11日の震災以降
    '今'が 今までの'今'とはずいぶん違ってしまいました

    あたり前であるはずの毎日を、たくさんの人が失い、
    平和ではない、 ということ
    平和とは何かということ

    壊れた海岸沿いの町
    馴染んだ景色が馴染みのない風景に変わり

    そこに立ったとき わたしは'戦争だ'と、
    ただ、その言葉しかでてきませんでした。

    人の意思によって起こされる戦争と 自然の廻りの中で起こる天災は違いますね
    戦火も襲ってくる砲弾も敵も、恐ろしい軍国主義もないけれど
    でも

    その言葉しかでてきませんでした。

    そしてまた
    被災地のことで手を動かしているとき
    ふと ひめゆりの皆さんのことを思い出したりします。

    平和ではないということがどういうことか
    平和ではない場所から、人々がどうやって立ち上がっていくか 
    元気のある場所の人たち、大人たちができること
    それを 考えるとき
    自然と頭の中で
    『ひめゆり』と行ったりきたりしているのです。

    悲しさ、愛しさ、守りたいこと、友や家族への想い
    '戦後'などと遠目では きっと言い切れない'今'
    私は 『ひめゆり』で触れる世界が 遠くではないと感じています。

    23日は、私自身に新たな観想との出逢いがあればいいなと想います。

About ひめゆりの風 Coccoの風

ブログ「大道映画人」のカテゴリ「ひめゆりの風 Coccoの風」に投稿されたすべてのエントリーのアーカイブのページです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

次のカテゴリはフィンランドです。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。