お世話になっている方の娘さんが亡くなった。
21歳だった。
事故死だった。
父親――僕のようなダメ男の面倒を厭わず
見てくれる優しい人だ――の顔は
泣きつづけたからだろう、
顔中が細波のように皴うっていた。
◆ ◇ ◆ ◇
僕には2人の娘がいる。
小学校6年生と1年生だ。
夜遅く家に帰ると、いつももう寝息を立てている。
6畳の畳間、布団を3枚しか敷けないところに
僕とカミさんと2人の娘、都合4人が所狭しと寝る。
あまりに日本的なウサギ小屋のこの風景こそが
海外に長くロケに出たとき
もっとも懐かしく思い出される情景だ。
家族の原風景となっている。
そうした時間を共有して育った娘が、
もし僕より先に黄泉の国へと川を渡ってしまったら、
僕はきっと気が狂ってしまうだろう。
誰よりも取り乱し、
暗い心のトンネルから出て来れなくなってしまうだろう。
それほど、
子の葬式を出すというのは
親にとって辛いことだ。
自分が親の身となってみて
痛みが切々と分かる。
◆ ◇ ◆ ◇
ひめゆり学徒でも、
多くの親たちが子を失う悲哀に暮れた。
一家全滅もたくさんあったが、
親は疎開をして生きのびられたのに
子は亡くなってしまったケースも多かった。
ひめゆりの搭の起源も
学徒隊で2人の娘を失った親御さんらが
あたりに散乱する遺骨を拾い
納骨して祀ったことにあった。
1946年4月のことだ。
戦後1年近く経っても
一帯には白骨が散乱し、
身の毛のよだつ状況だったという。
「信子よ 貞子よ いとし子よ
うちつれだちて
いずこへゆきし」
(信子よ、貞子よ、愛しい我が子よ
2人そろって、どこへ行ってしまったのか)
一人の母親が板切れに書いた詩が、
一木一草も残らぬ荒涼とした大地に立つ
ひめゆりの塔に添えられた。
姉の金城信子さん(19)は、茶目っ気たっぷりの人気者だった。
動物の真似をしたりして
皆を爆笑の渦に巻き込んだりする
ひょうきんな人だった。
妹の貞子さんは「ブーちゃん」の愛称で呼ばれていた。
底抜けに明るく、彼女の周りはいつも笑いが絶えなかった。
ひめゆりの壕の中で
ガス弾攻撃を受ける直前まで
戦場で暗く沈みがちな友達に
クリクリした丸い目で語りかけては
励ましていたという。
これが「ひめゆりの塔」の始まりだった。
◆ ◇ ◆ ◇
学徒隊に参加した生徒たちの多くは
1週間もすれば学校に戻れるだろう、
と思っていた。
赤十字の旗の立つ
戦場からはるか離れた病院に行くつもりで、
学校から陸軍病院へと向かった。
知識がなかった。
情報が与えられていなかった。
親の中には
上層部から「この戦争は負け戦だ」という情報を得て
わが子が戦場に行かないよう説得した人もいる。
「16歳になるまでお前を育てたのは、
戦場で死なすためではない」
と。
しかし娘は、
「お父さん、何を言ってるの。
そんなこと言ったら『非国民』と呼ばれるよ」
と家出同然で飛び出し、学徒動員に駆けつけた。
多くの親たちは、
娘たち同様に無知だった。
学校と一緒に病院に動員されることが
最も安全だと信じる親が
大部分だった。
◆ ◇ ◆ ◇
学校の首脳の中に、
戦場がいかに危険かを熟知していた人物がいる。
沖縄県立第一高等女学校の校長、
GN氏(沖縄師範学校女子部長を兼務)だ。
GNは、日常的に軍司令部に取り入っていた。
軍司令官を接待し、点数稼ぎに勤しんでいた。
そして戦況がどうなるか
事前に予測がついていた。
1945年3月23日、
ひめゆり学徒隊を戦場動員するその夜
GNは演説をした、
「学校の誇りを持って、戦場で働いて欲しい」
と。
生徒たちは希望に燃え陸軍病院へと向かって行った。
一方、校長(部長)のGNはどこへ行ったのか・・・。
彼は、軍総司令部壕へ行った。
最も安全が保障された壕である。
軍との緊密な連絡が必要であるとの理由で
自らは安全地帯にかくまわれた。
◆ ◇ ◆ ◇
ところで、GN校長(部長)は
軍や県のトップに気に入られるために、
いかに多くの生徒たちを動員するかを
画策した節がある。
1944年8月、つまり
沖縄戦が始まる7ヶ月前のこと。
八重山や久米島など離島の生徒たちは
夏休みで帰省した。
学級担任や生徒指導の先生からは
「夏休みが終わっても
学校には戻らなくてもいいよ」
と言われた。
既に沖縄近海には米軍の潜水艦がうようよし
危険な海を渡っての帰省だった。
しかし、夏休みが終わる頃、
離島の生徒たちのもとに
「スグ帰校セヨ」
との電報が学校から届いた。
特に師範学校の生徒には
帰らなければ教員免許を与えないと
半強制的な連絡だった。
帰省させる時には、
「もう学校に戻らなくてもいい」
と、学校ナンバー2の生徒指導の先生が
送り出した。
にもかかわらず、数週間後には
「帰校せよ」
との半強制的な命令を電報で送りつける
事態となった。
GNが、動員する生徒の数を確保するために
決定を下したと考えられている。
なお、沖縄戦で最も安全な軍司令部へ逃げたGNは
死の恐怖にさらされることも ほとんどないまま、
生きのびた。
◆ ◇ ◆ ◇
しかし、僕らの映画では、
このエピソードには一切触れていない。
なぜか。
それは、この問題を追及するという態度が
ひめゆりの人たちの心ではないからだ。
「『怒り』をそのまま相手に返すなよ。
じっと我慢しなさい。
それは神さまが返してくれるから。」
ひめゆりのおばちゃんたちの”学級委員長”
ひめゆり資料館の本村つる館長はそう言った。
それは、先輩たちから受け継がれた
教えなのだという。
怒りを怒りで返すと、
憎しみの連鎖が止まらなくなる。
今のパレスチナとイスラエルの紛争のように。
「目には目を」の精神では
憎しみの感情が螺旋階段を駆け上っていく。
(注) この「神様」は特定の宗教の神様ではなく
沖縄土着の祖先神であったり、
大気の中にあふれるように存在している
目に見えない存在たちである。
沖縄だけでなく、日本人の中に普通に存在している
神さまのことである。
◆ ◇ ◆ ◇
なお、生徒たちを無理に戦場に動員し
自らは生き残ったGNは
戦後、東京学芸大学の教授となった。
教員を養成する役割を負った国立大学で
戦後も悠々と教鞭を取ったのだった。
日本という国では、
戦前に若い命を蟻のように踏みにじった幹部が
戦後も悠々と生き続ける例が、
教育界だけでなく、政界、官界、財界、医療の分野など
あらゆる現場で見られたことを
事実として肝に銘じておきたい。
亡民の輩ともいうべき、卑劣な大人たちが、
まるで悪霊のように、
今の時代にも各界で
はびこっているように思える。
一人の親として、
しっかりと目を見張りたい。
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Coccoファンの若い方々からのメールに混じって、
子を持つ親の立場からのメッセージも寄せられている。
岩手県のTTさん(56)からの便り。
「毎年8月に戦争を題材にした芝居を上演しています。
今年は、ひめゆり学徒隊の朗読劇『摩文仁の丘』を上演し、
それに出させてもらいました。
その際、当時の悲惨さを垣間見て 三人の子供の親として、
人間として とっても深く考えさせられました。
何らかの 力になりたいと思っています。」
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今後、サブタイトルから
「ひめゆりの風 Coccoの風」という書き方を省略します。
今から書く全てのブログは
Coccoの風のもとにあることは確かだからです。
Coccoさんのおかげで、
このブログも、多くの若い読者を得ました。
その人たちに向けて、
僕は書いています。
「Coccoの風」と書いていなくても、
「Coccoの風」なんだという前提でお読みください。
また、随時、いただいたメッセージを
紹介させていただきます。
メッセージは送りたいけど掲載はして欲しくない場合は、
「掲載はしないで」と明記していただければ幸いです。